「日本における女性の合戦参加の年表」の版間の差分
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===記紀時代===
* のちの[[神武天皇]]が神武東征の際、戊午の年9月5日において、女軍(めのいくさ)を女坂に置き、11月7日に女軍を進ませ、敵軍は大兵が来たと思って、尽力して、これと交戦(『日本書紀』戊午の年、9月5日条、11月7日条)。[[官軍]]が女性部隊を用いた記述だが、[[神代 (日本神話)|神代]]に当たる。
*[[景行天皇]]が[[肥前国]][[巡幸]]時、嬢子山に[[土蜘蛛]]八十女人(大勢の女性首長)が住んでいたが、天皇に従わず抵抗したため、派兵して滅ぼした(『[[肥前国風土記]]』)。
*[[仲哀天皇]]9年: 7月20日、[[神功皇后]]は兵をあげ、荷持田村(のとりたのふれ)の翼人・羽白熊鷲(はしろくまわし)を層増岐野(そそきの)にて征伐する。同25日、山門県の[[土蜘蛛]]、[[田油津媛]]を征伐。同年10月3日、[[三韓征伐]]のため朝鮮半島へ出航、[[新羅]]は戦わずして降伏<ref>宇治谷孟、『日本書紀(上) 全現代語訳』、1988年、講談社、186‐194頁</ref>。
* 神功皇后1年: 2月、神功皇后、反乱を起こした[[忍熊皇子]]に対するため、[[紀伊国]]に上陸、[[小竹宮]]に移る。3月5日、[[武内宿禰]]と[[武振熊]]に命じて忍熊皇子を討たせる<ref>宇治谷孟、『日本書紀(上) 全現代語訳』、1988年、講談社、194‐199頁</ref>。
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