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'''松平 宗衍'''('''まつだいら むねのぶ'''、[[1729年]][[6月24日]]([[享保]]14年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]) - [[1782年]][[11月8日]]([[天明]]2年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[大名]]。[[出雲国]][[松江藩]]の第6代藩主。第5代藩主・[[松平宣維]]の長男。官位は従四位下、出羽守、左近衛権少将。
 
== 経歴 ==
享保16年([[1731年]]父・宣維の死により家督を継いだ。この頃、松江藩は財政が悪化し藩政も不安定化。このため藩主となった翌享保17年([[1732年]]には[[イナゴ]]の大群の襲来によって農作物が大被害を受け、29万石の所領で得ることができた石高はわずか12万石程度に過ぎず、しかもそれにも関わらずに家老たちは藩主が幼年であることをいいことに重税を強いたため、[[享保大一揆]]が発生してしまった。このため、成長した宗衍は家老による合議制を廃止し、自ら親政を行なうこととしたのである。また、財政改革のため、[[小田切尚足]]を登用した、
 
尚足は財政再建のために特産品の専売化、泉府方の新設、そして義田政策を行なうこととしたのである。ちなみに泉府方とは藩直属の金融機関による土地を抵当とする資金調達法である。専売化も泉府方政策もある程度の成功を収め、一時期は財政再建成功とまで思われた。ところが改革の最中に天災が相次ぎ、さらに藩内で改革に対する反対派が力を盛り返したため、[[宝暦]]2年([[1752年]]に改革は停止されて尚足は失脚してしまった。そして宝暦10年([[1760年]]藩財政は破綻状態となってしまったのである。このため、周囲からは「雲州様(松江藩の藩主)滅亡」とまで噂されたと言う。
 
[[明和]]4年([[1767年]]11)11月27日、改革に失敗した失意から次男の[[松平治郷]]に家督を譲って隠居した。これは、改革失敗の責任を家臣団から問われての処置だったとも言われている。天明2年10(1782年)10月4日に死去した。墓所:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]虎ノ門の天徳寺。[[島根県]][[松江市]][[月照寺 (松江市)|月照寺]]
 
[[Category:江戸の大名|まつたいらむねのふ]]