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[[安田学園中学校・高等学校|安田学園高校]]3年生の時の[[1983年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1983年度ドラフト会議]]にて[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]から3位指名を受けて[[捕手]]として入団。後に外野手へ転向。主に守備固めや代打のほか、左投手のときにはスタメンや代打で登場することが多かった<ref>橋上秀樹『野村克也に挑んだ13人のサムライたち』株式会社双葉社、2011年、216ページ、ISBN 978-4-575-15371-2</ref>。
 
{{by|1992年}}シーズンに、自己最多の107試合に出場。日本シリーズでも8打数5安打1本塁打と[[ジョニー・パリデス]]と共にラッキボーイ的存在になり活躍した。翌年以降も主に控えではあったが右の代打として活躍。13年目の時の1996年シーズンオフに金銭トレードで[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]へ移籍。
 
{{by|1998年}}シーズンは、[[小笠原道大]]と共に左右の代打の切り札として活躍。しかし翌{{by|1999年}}シーズンは不振に終わり、同年のシーズンオフに戦力外通告を受ける。なお、日本ハム時代の応援歌は[[森範行]]の流用で、退団後の2000年からはチャンステーマとして使用されている。
 
 
ヤクルト時代の恩師で、前年のシーズンオフに阪神の監督に就任していた[[野村克也]]に請われる形で[[10月22日]]に[[阪神タイガース]]へ移籍。しかし、移籍1年目の{{by|2000年}}シーズンは一軍へ昇格でき上がれず、[[9月23日]]に戦力外通告を受け、現役を引退。
 
=== 引退後 ===