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=== 戦績 ===
==== 3歳時(1992年) ====
当初は8月の[[小倉競馬場|小倉開催]]でのデビューが予定されていたが、体調を崩したことで<ref name="retsuden" />9月13日の[[阪神競馬場|阪神開催]]で初戦を迎えた。浜田は[[熊沢重文]]に騎乗を依頼したが、同じ新馬戦でデビューするダンシングサーパスへの騎乗を理由に断られたため、当時デビュー5年目の[[岸滋彦]]<ref name="watanabe"/>を鞍上に迎えた<ref name="retsuden2">『名馬列伝ビワハヤヒデ』pp.89-90</ref>。当日は2番人気に推されると、2着に大差(10馬身以上)、タイムにして1秒7差をつけての圧勝を収めた。続くもみじステークスもレコードタイムで勝利を収めたが、このレース後に初代厩務員の豊沢正夫が[[悪性腫瘍|がん]]により亡くなり、代役として荷方末盛を厩務員に迎えた<ref name="watanabe209211"/>。次走に浜田は[[京都2歳ステークス|京都3歳ステークス]]を見据えたが、「[[重賞]]を」という中島の要望を容れ、前2走から距離が200m短縮される[[デイリー杯2歳ステークス|デイリー杯3歳ステークス]]に出走<ref name="retsuden2" />。浜田は「前半取り残されないか」と危惧したが<ref name="retsuden2" />、2着に2馬身弱をつけ、芝1400mの3歳レコードを一挙に1秒2短縮する1分21秒7のタイムで勝利した<ref>『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.13</ref>。レース後に岸は「まだ遊びながら走ってますよ」とコメントした<ref>『名馬列伝ビワハヤヒデ』pp.20-21</ref>。
12月13日
==== 4歳時(1993年) ====
===== 騎手交替 =====
4歳となった翌[[1993年]]初戦には、[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]を見越して同場開催の[[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]]に出走<ref name="retsuden2" />。単勝オッズは再び1.3倍の本命となったが、先行した[[マイネルリマーク]]を捉えきれず、前走に続いてハナ差で敗れた。調整途上での惜敗でもあったため浜田はこの敗戦を大きく捉えることはなかったが<ref name="retsuden2" />、馬主の中島は不満を抱き、騎手の交替を要求{{#tag:ref|浜田によると中島は朝日杯での敗戦後にも騎手の交代を要求していたが、この時はビワハヤヒデが関東到着と同時に気持ちが萎縮してしまい、そのような状態で出走していたことを理由に岸をかばっていたため続投が決まっていた<ref name="watanabe"/>。|group="注"}}。浜田は中島と数度会談し、岸の責任ではないと留保を求めたが最終的にこれを認め<ref>木村(1997)p.15</ref>、浜田が直接岸に今回の事情を説明して納得を得たところで<ref name="retsuden2"/>、岸はビワハヤヒデの主戦から降板することになった。岸は共同通信杯の敗戦と降板について、「完全に油断負けです。相手をナメてはいけないということを、ビワハヤヒデから教わりました。クラシックでの乗り方などもいろいろ考えていたのですが、(このレースで)負けたのだから、降ろされることは覚悟していました<ref name="yushun200211">『優駿』2002年11月号、p.61</ref>」と述懐している。
浜田は新たな騎手として「天才」と称されていた[[武豊]]を推薦したものの、中島は「武君もキャリアが浅いから危ない」とこの提案を退け、「ベテランの騎手」を要望した<ref name="watanabe">渡辺(1999)pp.204-208</ref>。模索を続ける中で関東のトップジョッキーである[[岡部幸雄]]が候補に浮上したが、浜田・中島ともに岡部との面識が無く、最初の交渉では代理人を介して騎乗を依頼したものの、岡部側から面識がないことを理由に断られたため以降の依頼は難航した<ref name="watanabe"/>。この事実が明るみに出た際には関西のマスコミやファンの間から「なにも関東の騎手にそこまでして頼まなくてもいいのではないか」という不満の声も上がった<ref name="watanabe"/>。しかし中島が粘り強く直接依頼を続けた結果、岡部は「[[三顧の礼]]」に応える形でビワハヤヒデへの騎乗を承諾した<ref name="watanabe" />。しかしながら、当時の岡部はビワハヤヒデに対して「早熟のマイラー<ref group="注">1600m前後の距離を得意とする馬。</ref>ではないか」という印象を抱いており、またクラシック戦線においては朝日杯5着のニホンピロスコアーに期待を寄せていたことから、この時点での騎乗は「一度乗って感触を確認する」というものに過ぎなかった<ref name="100meiba34">『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.34</ref>{{#tag:ref|なお、当時2戦2勝の成績であったクエストフォベストを岡部の本命視とする報道も多くされていたが、岡部は同馬について「いい素質があったけど、体力的にクラシックはきついだろうと思っていた」と述べている<ref name="100meiba34" />。|group="注"}}。
岡部との初コンビとなった[[若葉ステークス]]([[皐月賞]][[トライアル競走|トライアル]])では単勝オッズ1.3倍の1番人気に
===== 春二冠の惜敗 =====
クラシック初戦・皐月賞(4月18日)では、前哨戦の[[弥生賞]]を制した[[ウイニングチケット]]([[柴田政人]]騎乗)に次ぐ2番人気に支持された。レースでは先行集団を見る形で道中を進み、最終コーナーで2番手まで進出。最後の直線では伸びきれないウイニングチケットを尻目に半ばで抜け出したが、後方から両馬の動きを窺っていた[[ナリタタイシン]](武豊騎乗)が大外から一気に追い込み、ビワハヤヒデはゴール直前でクビ差かわされ2着に敗れた。岡部は「相手の馬が強かった。しょうがない。ただ、直線でもう少し馬体が合っていたら、結果は違っていたかも……。馬が正直に走りすぎて2000メートル以上走っているよ」などと敗戦の弁を述べた<ref>『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.17</ref>。浜田は後にこの競走を振り返り、「あの瞬間はあっけにとられて、呆然としてしまいましたよ。坂上でウイニングを競り落としたところで、よし勝ったと。それが、手の中に入った瞬間、ポロッとこぼれ落ちちゃったんですからね。それにしても、こちらが乗ってもらおうと思って、結局やめてしまった武君にやられたんだから、皮肉なものですね」と語っている<ref>渡辺(1999)pp.218-219</ref>。皐月賞はビワハヤヒデとウイニングチケットの二強争いと見られていたが、これをナリタタイシンが勝利したため、「BNW」と称されたライバル関係が築かれることとなった<ref>『名馬列伝ビワハヤヒデ』p.6</ref>。
5月30日のクラシック第2戦・日本ダービーでは、皐月賞で4着に敗れたウイニングチケットが前走に続き1番人気、次いでビワハヤヒデ、ナリタタイシンの人気順だったが、オッズはそれぞれ3.6倍、3.9倍、4.0倍と拮抗し、「三強対決」の様相を呈した<ref name="100meiba3">『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』pp.18-19</ref>。スタートが切られると3頭はそれぞれ中団から後方に位置。第3コーナーから最終コーナーにかけて、岡部・ビワハヤヒデは前へ進出しつつ荒れた状態の馬場内側を避け、外向きに進路を取った。しかし直後につけていた柴田・ウイニングチケットは、他馬が避けた内側の最短距離を通り、一気に先頭に立った。最後の直線でビワハヤヒデは逃げるウイニングチケットを追走し徐々に差を詰めたが、半馬身およばず皐月賞に続いての2着となった。3着には追い込んだナリタタイシンが入った。岡部は競走後のインタビューで「4コーナーでウイニングチケットについていきたかったが、動けなかった。瞬発力の差だ。それに内ラチ沿いは荒れていて、入る自信がなかった。ビワの状態もよかったけど、パドックではウイニングが一番良く見えたし、(柴田は)自信があったから入れたんだろうね。直線ではよく差を詰めたけど、かわせるとは思えなかった」などと述べたが<ref name="100meiba3" />、「力は出し切れたと思うよ。勝った馬が強すぎたよ」とコメントし、ウイニングチケットとこれがダービー初勝利となった同期の柴田を称えた<ref>「名馬列伝ビワハヤヒデ」p.8</ref>。浜田は馬場状態の良いところを通らせた岡部の判断に理解を示しつつ「それよりも[[東京競馬場#府中の大欅|大欅]]<small>''(注:第3コーナー手前)''</small>のあたりから4コーナーまでの、300メートルがレースを左右したと思いますよ。岡部君は大欅のところから馬を外に出したんですが、前にいた[[ドージマムテキ]]が急にバテて下がったため、せっかく外に行ったものを、また内に入らざるを得ないというロスがあったんです。あれが何にしても痛かった」と回顧している<ref>渡辺(1999)p.227</ref>。
春の二冠はどちらも2着という結果について、浜田は「環境の変化による食欲減退が原因。決して力負けではない」とした<ref>吉沢(1997)p.81</ref>。しかしビワハヤヒデは一部のマスコミから「勝負弱い」「距離の持たないマイラー」と書き立てられ、なかには岡部の手際の悪さを指摘するマスコミ<ref>吉沢(1997)p.84</ref>や、「[[ダート]]馬ではないか」と書き立てたマスコミもいた<ref name="meiba-116119"/>。
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===== 一強化と半弟ナリタブライアンの台頭 =====
[[ファイル:Narita Brian 19960309R1.jpg|thumb|240px|ナリタブライアン]]
翌[[1994年]]は2月の[[京都記念]]から始動し、過去最高の[[負担重量]]となる59kg、初めて経験する[[重馬場|稍重馬場]]といった懸念を払拭し、2着に7馬身差をつけて圧勝
次走の天皇賞(春)<ref group="注">当年の天皇賞(春)は、京都競馬場の改修工事のため、阪神競馬場で開催。</ref>では、ウイニングチケットが休養中、トウカイテイオーと前年度優勝馬の[[ライスシャワー]]が回避と、出走馬の層が薄くなった中で単勝オッズ1.3倍と圧倒的な1番人気に支持された<ref>『名馬列伝ビワハヤヒデ』pp.40-41</ref>。レースではスローペースに堪えきれず掛かる<ref group="注">掛かる、引っ掛かる=抑えようとする騎手の手綱に反し、ペース配分ができないこと。</ref>様子を見せながらも最後の直前で抜け出し、2番人気のナリタタイシンの追い込みを待ってからスパートを掛けるという余裕を見せ、同馬に1馬身余りの差を付け優勝<ref name="ashige">『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.29</ref>。GI2勝目を挙げた。この前週にナリタブライアンが4歳クラシック初戦の皐月賞をレコードタイムで制していたため、民放のテレビ実況を行った[[杉本清]]はゴール前で「兄貴も強い、兄貴も強い、弟ブライアンについで兄貴も強い」と伝えた<ref name="sugimoto">杉本(1995)pp.29-30</ref>。これについて杉本は「気の早いマスコミは『三冠か』などと騒ぎ出してなんとなく弟一色に傾いていたので、『いや、兄貴も強いんだぞ』という気持ちが出ました」と述べている<ref name="sugimoto" />。
続く春のグランプリ・宝塚記念では前走の顔触れからナリタタイシンも抜け、「どれが相手だか分からないようなメンバー」(浜田<ref>『名馬列伝ビワハヤヒデ』p.94</ref>)となり、2着[[アイルトンシンボリ]]に5馬身差、2分11秒2という芝2200メートルの日本レコードタイムで優勝した。この2週間前に行われた日本ダービーでは、ナリタブライアンがやはり5馬身差の圧勝を演じており、競走後に兄弟対決について水を向けられた浜田は「今のビワハヤヒデなら何とかなるんじゃないか……。いや、これ以上は勘弁してくれよ」と語った<ref>『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.30</ref>。▼
▲続く春のグランプリ・宝塚記念では前走の顔触れからナリタタイシンも抜け、出走メンバーの中でGI勝ち馬がビワハヤヒデと[[ベガ (競走馬)|ベガ]]の2頭のみになったため<ref name="retsuden-4243"/>、浜田が「どれが相手だか分からないようなメンバー」
夏は前年と同様に栗東トレーニングセンターで過ごしたが、当年は記録的な猛暑となり、馬房の前に氷を吊すなどの暑さ対策が施された<ref name="retsuden5">『名馬列伝ビワハヤヒデ』p.95</ref>。そうした中、浜田がビワハヤヒデの秋の予定について[[オールカマー]]から天皇賞(秋)、有馬記念という路線を進むことを発表。当時欧米やオセアニアから数々の強豪を招いていた国際競走の[[ジャパンカップ]]を回避するという内容について、浜田は「昨年の有馬記念では口惜しい思いをしました。また、ともに順調にいけば、有馬記念でナリタブライアンとぶつかることになるでしょう。だから是非、有馬記念をこの秋のピークに持っていけるようにしたい。<small>''(中略)''</small>最近の傾向を見ていると、ジャパンカップと有馬記念という2つのレースをともに万全の体調で迎えることは非常に難しいように思うんです」と説明した<ref>『優駿』1994年9月号、p.8</ref>。しかしこの決定は、特に天皇賞出走について一部に「勝負付けの済んだ相手と走り、未知の強豪から逃げている」という旨の批判を招き、作家の[[石川好]]は競馬会の広報誌『[[優駿]]』に「日本最強馬の動向」と題した抗議文を特別寄稿した<ref>『優駿』1994年11月号、pp.32-33</ref>。また、同誌で国際欄を担当していた[[石川ワタル]]は、ジャパンカップへの展望記事でこの回避を「退散」と表現し<ref>『優駿』1994年11月号、p.31</ref>、後に「今はもうそんなことは思っていない」としながら、当時は「日本最大のレース・ジャパンカップをあえて逃げるなんて、そんな及び腰では、そのうち良くないことが起こるだろう。勝負の世界では、弱気になったら負けなんだ」と感じたとしている<ref>『名馬列伝ビワハヤヒデ』p.134</ref>。一方、こうした出来事を受けて同誌が「有力馬のGI回避説」について読者からの意見を募集すると、回避に賛成する意見が48%、そもそもファンに口出しする権利はないとする意見が25%、回避に反対する意見が22%であった<ref>『優駿』1995年1月号、p.174</ref>。浜田は後にジャパンカップ回避は中島の意向だったと明かし、「<small>''(天皇賞は)''</small>昔の[[帝室御賞典|賞典競走]]だから。昔の人間にとっては、やっぱり天皇賞は大きいよ」と述べている<ref name="retsuden5" />。▼
▲夏は前年と同様に栗東トレーニングセンターで過ごしたが、当年は記録的な猛暑となり、馬房の前に氷を吊すなどの暑さ対策が施された<ref name="retsuden-4445">『名馬列伝ビワハヤヒデ』pp.44-45</ref><ref name="retsuden5">『名馬列伝ビワハヤヒデ』p.95</ref>。そうした中、浜田がビワハヤヒデの秋の予定について[[オールカマー]]から天皇賞(秋)、有馬記念という路線を進むことを発表。当時欧米やオセアニアから数々の強豪を招いていた国際競走の[[ジャパンカップ]]を回避するという内容について、浜田は「昨年の有馬記念では口惜しい思いをしました。また、ともに順調にいけば、有馬記念でナリタブライアンとぶつかることになるでしょう。だから是非、有馬記念をこの秋のピークに持っていけるようにしたい。<small>''(中略)''</small>最近の傾向を見ていると、ジャパンカップと有馬記念という2つのレースをともに万全の体調で迎えることは非常に難しいように思うんです」と説明した<ref>『優駿』1994年9月号、p.8</ref>。しかしこの決定は、特に天皇賞出走について一部に「勝負付けの済んだ相手と走り、未知の強豪から逃げている」という旨の批判を招き、作家の[[石川好]]は競馬会の広報誌『[[優駿]]』に「日本最強馬の動向」と題した抗議文を特別寄稿した<ref>『優駿』1994年11月号、pp.32-33</ref>。また、同誌で国際欄を担当していた[[石川ワタル]]は、ジャパンカップへの展望記事でこの回避を「退散」と表現し<ref>『優駿』1994年11月号、p.31</ref>、後に「今はもうそんなことは思っていない」としながら、当時は「日本最大のレース・ジャパンカップをあえて逃げるなんて、そんな及び腰では、そのうち良くないことが起こるだろう。勝負の世界では、弱気になったら負けなんだ」と感じたとしている<ref>『名馬列伝ビワハヤヒデ』p.134</ref>。一方、こうした出来事を受けて同誌が「有力馬のGI回避説」について読者からの意見を募集すると、回避に賛成する意見が48%、そもそもファンに口出しする権利はないとする意見が25%、回避に反対する意見が22%であった<ref>『優駿』1995年1月号、p.174</ref>。浜田は後にジャパンカップ回避は中島の意向だったと明かし、「<small>''(天皇賞は)''</small>昔の[[帝室御賞典|賞典競走]]だから。昔の人間にとっては、やっぱり天皇賞は大きいよ」と述べている<ref name="retsuden5" />。
===== 故障 - 引退 =====
秋緒戦の[[オールカマー]]では、負傷引退を表明していた柴田政人に代わって武豊を鞍上に迎えたウイニングチケットと有馬記念以来の対戦となったが、同馬に1馬身3/4差をつけて勝利<ref name="retsuden-4445"/>。しかし浜田が「478kg、悪くても476kgで走らせるつもりだった<ref name="retsuden5" />」という馬体重は470kgと細化しており、競走後の岡部の表情も沈んだものだった<ref name="okabe">『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.35</ref>。天皇賞に向けての調教過程においても体重は戻らず<ref name="retsuden5" />、10月30日の天皇賞当日も前走と同じ馬体重で出走した。当日は単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持されたが、岡部は「パドックで跨った瞬間、いつもと違うと感じた」としている<ref name="okabe" />。スタートが切られると常の通り先行したが、最終コーナーから最後の直線にかけて一度も先頭に立つことなく、[[ネーハイシーザー]]の5着に敗退し、掲示板には入ったものの生涯で初めて連対を外す結果となった。さらにコースから引き上げる最中に岡部が下馬<ref name="tennnosho">『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.33</ref>。競走後、左前脚に[[屈腱炎]]
競走から3日後の11月2日、同じく天皇賞で屈腱炎を発症したウイニングチケットに続く形で、浜田からビワハヤヒデの引退が発表された<ref name="100meiba2" />。これにより有馬記念で期待されたナリタブライアンとの兄弟対決も実現せず終わった。この4日後に行われた菊花賞で、ナリタブライアンは2着に7馬身差をつける圧勝で史上5頭目のクラシック三冠制覇を達成<ref>杉本(2001)p.116</ref>。実況を行った杉本清は最後の直線でナリタブライアンが先頭に立つと「弟は大丈夫だ」という言葉を数回挿みながらその模様を伝えた<ref>杉本(1995)p.96</ref>。
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== 特徴・評価 ==
=== 競走馬としての特徴・評価 ===
デビューから引退まで一線で活躍し続け、短距離の1400mから長距離の3000mまで4度のレコード勝利を挙げた実績から「万能の名馬」([[吉沢譲治]]<ref>『優駿』1998年5月号、p.52</ref>)とも評されるが、岡部幸雄はビワハヤヒデについて「本質的には優れた中距離馬」であったと評している<ref name="okabe
中央競馬史において、ビワハヤヒデは1988年の年度代表馬[[タマモクロス]]から始まり、[[オグリキャップ]]、[[メジロマックイーン]]と続いた「[[芦毛]]の王者」の系譜に連なるとされ<ref name="hamada" /><ref name="ashige" />、自身の引退により「芦毛の時代」が終わりを迎えたとされている<ref>『優駿』2000年11月号、p.27</ref>。岡部は歴代の名馬との比較について、「中長距離では<small>''(岡部が騎乗した)''</small>七冠馬[[シンボリルドルフ]]に次ぐ存在か」との質問に対して「それぐらいに思ってる」と答えており、有馬記念で敗れたトウカイテイオーとの上下について問われた際には、「テイオーは確かに強いときはビワ以上のものを感じた」としつつ、「コンスタントに走れるのはとにかく強み」としてビワハヤヒデを上位に挙げた<ref name="okabe" />。岡部は競走生活晩年を振り返り「あの年に無理をさせず、十分な夏休みを与えていれば、天皇賞で故障することもなく、翌年はチャンピオンホースになれていたんじゃないかと確信している」と述べている<ref name="okabe130"/>。浜田はビワハヤヒデの性格について「厩舎では悠々と落ち着いているんですが、内面はデリケートで神経質なんです。そういう内弁慶なところがあった」と述べ、このような性格だったため関東での競馬には弱かったとしており、朝日杯・共同通信杯時はいずれも現地到着と同時に気持ちが萎縮してしまった状態での出走だったと明かしている<ref name="watanabe"/>。後に関東圏でのGIで勝利できなかった理由についても「精神面での『弱さ』が残っていたから」と述べている<ref>『Sports Graphic Number PLUS』p.22</ref>。
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== 血統 ==
=== 血統背景 ===
父シャルードはビワハヤヒデの活躍を受けて日本に輸入されたが、他に目立った活躍馬を出すことはなかった。高山裕基は、ビワハヤヒデはシャルードよりも祖父カロの影響が強く出たのではないかとしている<ref name="takayama" />。4代父[[グレイソヴリン]]を祖に持つ「[[グレイソヴリン系]]」の種牡馬は「早熟な短~中距離馬の血統」という定評があったが、血統研究家の[[吉沢譲治]]は「その既成概念を新種牡馬で登場した[[トニービン]]と共に、180度くつがえしたのがビワハヤヒデだった」と評し、菊花賞以降の飛躍は母の父ノーザンダンサーの影響によるものではないかとしている<ref name="yoshizawa" />。血統評論家の久米裕は、[[アスワン (競走馬)|アスワン]]、[[アンバーシャダイ]]、[[ギャロップダイナ]]、[[ダイナガリバー]]といった[[ノーザンテースト]]産駒が日本にノーザンダンサーの血を根付かせたという定説について、これらの馬は母方の血の効力によって能力を発揮した馬であり、父方のノーザンダンサーの血の生かし方が中途半端であったため、本当の意味で日本で初めてノーザンダンサーの血を生かした配合馬はビワハヤヒデであると述べている<ref>『名馬列伝ビワハヤヒデ』p.74</ref>。
=== 血統表 ===
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|FN =13-a
|ref3 = {{Cite web|url= http://www.jbis.or.jp/horse/0000231850/pedigree/ |title=血統情報:5代血統表|ビワハヤヒデ|JBISサーチ|work=JBISサーチ|publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2019-12-30}}
|inbr =[[ナスルーラ|Nasrullah]]
|ref4 = {{Cite web|url= http://www.jbis.or.jp/horse/0000231850/pedigree/ |title=血統情報:5代血統表|ビワハヤヒデ|JBISサーチ|work=JBISサーチ|publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2019-12-30}}
}}
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*『Sports Graphic Number PLUS - 20世紀スポーツ最強伝説(4)競馬 黄金の蹄跡』(文藝春秋、1999年)ISBN 978-4160081086
*『名馬物語 The Best Selection』(エンターブレイン、2002年)ISBN 4757708750
*『[[優駿]]』(日本中央競馬会)
** 1994年9,11月号、1995年1,8月号、1998年8月号、2000年11月号、2002年11月号
*『臨時増刊号Gallop'94』(産業経済新聞社、1995年)
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