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到満率いる秦軍と魏軍はそのまま[[燕 (春秋)|燕]]に攻め入り[[紀元前314年]]に[[子之]]の乱に乗じて燕を制圧していた斉軍は燕から撤退した。
 
懐王はこの敗戦を知ると激怒し、軍を増派し秦国境を越えて攻め込んだ。秦と楚の軍は藍田(現在の[[陝西省]][[西安市]][[藍田県]])で激突し、楚軍は大敗した。このため韓と魏の軍が楚の領土である鄧城(現在の湖北省[[襄陽市]][[樊城区]]の北)に攻め込みそれを知った楚軍は撤退し、懐王は秦との和議のために二つの都市を割譲した<ref>『史記』巻四十・楚世家:(楚懐王)十七年春,与秦戦丹陽,秦大敗我軍,斬甲士八万,虜我大将軍屈匄・裨将軍逢侯丑等七十余人,遂取漢中之郡。楚懐王大怒,乃悉国兵復襲秦,戦藍田,大敗楚軍。韓・魏聞楚之困,乃南襲楚,至於鄧。楚聞,乃引兵帰。 </ref><ref>『史記』巻七十・張儀列伝:楚又復益発兵而襲秦,至藍田,大戦,楚大敗,於是楚割両城以與秦平。</ref>。
 
[[紀元前311年]]、秦の恵文王崩御の後、太子の嬴蕩が[[武王 (秦)|武王]]として即位すると太子時代より張儀と魏章とは不仲であったため翌[[紀元前310年]]に張儀と魏章は誅殺を恐れて秦を去って魏に向かった。これよりの後の魏章の事績は記録に残っていない<ref>『史記』巻五・秦本紀:武王元年,張儀・魏章皆東出之魏。</ref>。