「石田博英」の版間の差分
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{{main|1956年12月自由民主党総裁選挙}}
[[1956年]]の[[1956年12月自由民主党総裁選挙|自由民主党総裁選挙]]で、石橋湛山陣営の選挙参謀を務める。石橋、[[石井光次郎]]、[[岸信介]]の3人が立候補した総裁選挙では熾烈な派閥抗争や金権選挙が繰り広げられ、後の自民党総裁選のパターンを形成する悪名高いものであったが、石田は金をばら撒く代わりに、ポストの空手形を乱発した。1回目の投票では岸信介223票、石橋151票、石井光次郎137票でいずれも過半数を制するに至らず、大会規約により1位の岸、2位の石橋による決選投票が行われた。石田は、舞台裏で石橋、石井の「2・3位連合」を工作し、決選投票では7票差で石橋が岸を下して自民党総裁に選出された。石橋総裁の誕生に大きく貢献した石田は[[石橋内閣]]において、史上最年少で副総理格、[[内閣官房長官]]に任命され、初入閣する。総裁選で石橋を支持した[[池田勇人]]は[[大蔵大臣]]に、[[三木武夫]]は自民党幹事長に起用されたが、石橋の病気によりわずか2ヶ月で内閣は退陣した。石橋の退陣により発足した[[第1次岸内閣]]でも引き続き官房長官を務め、[[第1次岸内閣_(改造)|第1次岸改造内閣]]では[[労働省|労働大臣]]に横滑りする。[[労働組合]]に対しては厳しい姿勢で臨み、頻発する[[炭鉱]][[ストライキ|スト]]を違法ストに認定して抑え込んだ。
[[第2次岸内閣]]発足に伴い一旦労相を退任するが、[[第1次池田内閣]]で[[三井三池争議]]の収拾のため、再び労相に任命される。[[皇居]]での[[認証式]]を終えた石田は、[[モーニングコート|モーニング]]を着たまま九州の[[三井三池炭鉱]]に飛び、事態の収拾に奔走。[[中央労働委員会]]の仲裁裁定完全実施の慣行や、[[結社の自由及び団結権の保護に関する条約|ILO87号条約]]批准問題に取り組み、戦後の労働行政の発展に大きく寄与した。
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