「ダグラス・マッカーサー」の版間の差分

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[[1943年]]3月の[[ビスマルク海海戦]](いわゆるダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、[[第5空軍 (アメリカ軍)|第5航空軍]]司令官[[ジョージ・ケニー]]によれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]])のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任として[[トーマス・C・キンケイド]]が就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。
 
マッカーサーは連合軍の豊富な空・海戦力をうまく活用し、日本軍の守備が固いところを回避して包囲し補給路を断って、日本軍が飢餓で弱体化するのを待った。マッカーサーは陸海空の統合作戦を『三次元の戦略構想』、正面攻撃を避け日本軍の脆弱な所を攻撃する戦法を『蛙飛び作戦』と呼んでいた{{sfn|津島 訳|2014|p=122}}。日本軍は空・海でのたび重なる敗戦に戦力を消耗し、制空権・制海権を失っていたため、マッカーサーの戦術に対抗できず、マッカーサーの思惑通り、[[ニューギニアの戦い]]では多くの餓死者・病死者を出すこととなった。この勝利は、フィリピンの敗戦で損なわれていたマッカーサーの指揮能力に対する評価と名声を大いに高めた。
 
==== I shall return ====