不受不施義の不受とは法華経の信者以外からは施しを受けず、不施とは法華経以外の教えを広める僧侶には施しをしないということ。
日蓮の法華経に対する純粋な姿勢も、室町時代に入ると宗派が勢力を拡大していく過程の中で、他宗派との妥協や他宗派の信者からの施しを平気で受けるなど、次第に変質していった。このような状況の中で、室町六代家足利義教の頃「鍋かむりの日親」とあだ名された日親が不受不施を主張した。
このような状況の中で、室町六代家足利義教の頃「鍋かむりの日親」とあだ名された日親が不受不施を主張した。日親は京都一条戻橋で辻説法をはじめたが(1427)、比叡山延暦寺や将軍家の帰依を受けていた臨済宗などの他宗派から激しい弾圧を受けた。また日親は法華経によって、当時の乱れた世の中を救うべく(同時代は正長の土一揆や後南朝勢力の反乱などの動乱が続いた)、足利将軍家の日蓮宗への改宗を目論み「立正治国論」を著し、直訴を試みたが投獄され(1440)、真っ赤に焼け爛れた鍋を頭に被せられるなどの拷問を受けた。
桃山時代には関白豊臣秀吉が亡き母大政所の回向のための千僧供養に日蓮宗の僧侶も出仕を命じる事件が起きた(1595)。このとき日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受不施派と、出仕を拒み宗規を守ろうとする不受不施派に分裂した。そして京都妙覚寺の日奥がただ一人出仕を拒否して妙覚寺を去った。さらに徳川家康は大阪城で日奥と日紹(受不施派)を対論させ(大阪城対論)、権力に屈しようとしない日奥を対馬に流罪にした(1599)。日奥は十三年後赦免されて妙覚寺に戻った。
江戸時代に入ると身延山久遠寺(受不施派)の日暹が、日奥の弟子である武蔵国池上本門寺(不受不施派)日樹が身延山久遠寺を誹謗・中傷して信徒を奪ったと幕府に訴え(1630)、幕府の命により両派が対論する事件が起きた(身池対論)。しかしこのとき身延山久遠寺側は本寺としての特権を与えられるなど、幕府と強いコネクションをもっており、支配者側からは都合の悪い不受不施派は、結局追放の刑に処されることになった。このとき日奥は再び対馬に配流されることになったが、既になくなっており、遺骨が配流されたとされる。
そして幕府は、寺領を将軍の寺に対する供養とし、道を歩いて水を飲むのも領主の供養であるという「土水供養論」を展開し不受不施派をキリスト教とともに禁制宗派とした(1665)。このとき安房小湊の誕生寺は寺領を貧者への慈悲と解釈して表向き幕府と妥協する「悲田派」と称する派をたて秘かに不受布施の教義を守っていたが、これもれ発覚し関係者は流罪に処せられた(1691)。
不受不施派の信者は、内心では不受不施派を信仰する「内信」となる者が多く、一部の強信者は無籍になって不受不施派の「施主(法立)」となった。また不受不施派の僧侶は「法中」と呼ばれ、それを各地の「法燈」が率いた。そして不受不施派では教義上「内信」は不受不施派とはみなされないので直接「法中」に供養することが出来ず、「施主」がその間を仲介するという役割を果たした。この信者同士の絆が強固な地下組織を形成し、度重なる摘発(法難)を乗り越え、この時代を生き抜いた。
明治維新を迎えると、政府は釈日正を中心とした不受不施派から宗派再興、派名公許の懇願を受け、信教の自由の名の下明治九年(1876)、不受不施派の宗派再興、 派名公許を布達した。
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