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[[1980年代]]後半から[[1990年代]]に活躍した。[[ズボニミール・ボバン]]や[[ダヴォール・シューケル]]らと共にクロアチア代表を、同国初の[[UEFA欧州選手権]]([[UEFA EURO '96|1996年イングランド大会]])及び[[FIFAワールドカップ]]([[1998 FIFAワールドカップ|1998年フランスW杯]])に導いた選手として有名である。
 
左足から、多彩な球種のラストパスで決定期を生み出す、一流のパサーであった<ref> [[週刊サッカーマガジン]] 1998年4月1日 no.651 p.64-65 [[ベースボールマガジン社]]</ref>。
== クラブ経歴 ==
最初は、地元の[[ハイドゥク・スプリト]]のユースでキャリアをスタート。[[1984年]]に同チームのプロチームに昇格し、6シーズンに渡ってプレーした。この間173試合46得点をマークし、1986-87シーズンには最初のタイトルとなる[[ユーゴスラビア・カップ]]優勝を果たした。
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[[1990年]]シーズンより、[[フランス]]の[[リーグ・アン]]に移籍。[[FCメス|メス]]を皮切りに、[[ASカンヌ|カンヌ]]、[[モンペリエHSC|モンペリエ]]に所属した。メスでは35試合13得点,カンヌでは28試合7得点,モンペリエでは43試合10得点を挙げ、4シーズンで106試合30得点と活躍した。
 
[[1994年]]シーズンより古巣のハイドゥク・スプリトに復帰。チームは1994-95シーズンの[[プルヴァHNL|国内リーグ戦]]と[[フルヴァツキ・ノゴメトニ・クプ|国内カップ戦]]の2冠を達成した。国内リーグ戦優勝により出場した[[UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95]]では、予選で[[レギア・ワルシャワ]]([[ポーランド]])相手に2ndレグで2得点を挙げる活躍(この試合は4-0で圧勝)を見せ、クロアチアのクラブ史上初の本戦出場を果たした。本戦のグループリーグでも[[ベンフィカ]]([[ポルトガル]])に次ぐ2位で突破し、[[準々決勝]]で[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]([[オランダ]])に1stレグで0-0と善戦するも、2ndレグで0-3と敗れたが、これまたクロアチアのクラブ史上初の8強入りを果たした。この大会での活躍が認められ、1995-96シーズンの途中には[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]の[[レアル・バリャドリード]]に[[レンタル移籍]]した。
 
1996-97シーズン、[[プレミアリーグ]]の[[ダービー・カウンティFC|ダービー・カウンティ]]に移籍、10番を背負い1シーズン半を過ごし、優れたゲームメークを見せるなど、1シーズン目には大きなインパクトを残した<ref name="dcfc">{{Cite web|url=https://www.dcfc.co.uk/news/2020/03/asanovic-after-nearly-23-years-im-so-happy-to-have-come-back|title=ASANOVIC: “AFTER OVER 20 YEARS - I’M SO HAPPY TO HAVE COME BACK”l team|publisher=dcfc|accessdate=2020-11-03}}</ref>。2シーズン目は怪我で限られた出場機会となり<ref name="dcfc"/>、シーズン途中当時[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の下位に低迷していた[[SSCナポリ|ナポリ]]に移籍した。その後は[[ギリシャ・スーパーリーグ]]の[[パナシナイコスFC|パナシナイコス]],[[サッカー・ブンデスリーガ (オーストリア)|ブンデスリーガ (オーストリア)]]の[[FKアウストリア・ウィーン|アウストリア・ウィーン]]を経て、[[2001年]]シーズンには初めて[[UEFA]]外で、[[Aリーグ]]の[[シドニー・ユナイテッド]]でプレーした。[[2002年]]に、古巣・ハイドゥク・スプリトに3度目の復帰をして1試合だけ出場し、現役生活に終止符を打った。
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1990年にクロアチア代表にも選出。[[10月17日]]に[[スタディオン・マクシミール]]([[ザグレブ]])で行われた[[サッカーアメリカ合衆国代表|アメリカ代表]]との親善試合で先制ゴールを挙げ、これが自身の代表初ゴールとなった。1996年の[[UEFA EURO '96|ヨーロッパ選手権]]ではグループリーグの[[サッカートルコ代表|トルコ]]戦、[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]戦でそれぞれ1アシストを決めて<ref name="transfer"/>、クロアチア史上初のメジャー大会での決勝トーナメント進出に貢献した。
 
1997年、[[6月8日]]に[[国立霞ヶ丘陸上競技場]]で行われた、[[キリンカップサッカー]]の[[サッカー日本代表|日本]]戦では、0-3でリードされた後半31分と後半40分(FKと[[ペナルティーキック|PK]])に連続して得点を挙げ、代表では初の2ゴールを決めた<ref>[http://www.japannationalfootballteam.com/1997/0608.html 日本 vs クロアチア - 1997年6月8日] サッカー日本代表データベース</ref>。
 
1998年、[[1998 FIFAワールドカップ|ワールドカップフランス大会]]ではグループリーグ6月20日の日本戦で、後半32分に[[中西永輔]]を振り切って正確な[[センタリング]]を上げ、これをシューケルが合わせて先制ゴール。この試合の勝利(1-0)の立役者となった<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/23311?page=5 ベンゲル、日本の戦いを振り返る。][[Sports Graphic Number|Number]]傑作選。[[1998年]][[7月]]号、[[2010年]][[5月14日]]配信。</ref>。ラウンド16の[[サッカールーマニア代表|ルーマニア]]戦でもスーケルの決勝ゴールをアシスト<ref name="transfer"/>、準々決勝では[[サッカーフランス代表|フランス]]に敗れたがこの試合でもスーケルへのアシストを決めた<ref name="transfer">{{Cite web|url=https://www.transfermarkt.com/aljosa-asanovic/nationalmannschaft/spieler/103806|title=Asanović national team|publisher=transfermarket.com|accessdate=2020-11-03}}</ref>。この大会ではチームの中心選手として全7試合にフル出場、チームの3位に貢献した。
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== 脚注、出典 ==
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== 外部リンク ==