「投下 (モンゴル帝国)」の版間の差分

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この文章に見られるように、ジョチ家の投下領とされた平陽路では、「諸妃・王子」らによって分地がより細分化され、50〜70の頭項(=投下)が成立していたという<ref>岩村1968,439-442頁</ref>。このような投下の細分化は、モンゴルの公権力が県以下の郷村レベルまで介入するという副産物を生んだ。実際に、「河東罪言」と同時期に建立された「大朝断定使水日時記」という碑文には、平陽路内の武池村の有力者として「権千戸(ミンガン)」や「官人(ノヤン)」と呼ばれるモンゴル名を挙げており、村レベルにまでモンゴル人が派遣され現地の統治に携わっていたことがわかる<ref>井黒2013,98-100頁</ref>。
 
また、投下は皇族のみならずノコル(御家人)に対しても分け与えられていた。『元史』巻95食志3には投下領王の一覧が記載されているが、その中には○○官人(官人は[[ノヤン]]の意訳)という形で皇族以外の功臣で投下領を有する者の名前も記録されている。一方、『元史』巻2太宗本紀にも丙申年に投下を与えられた者が列挙されているが、巻95食志3の記述と比較すると巻95食志3にはあって巻2太宗本紀には見られない投下領主の名前が多くみられる。松田孝一は二つの記録を比較した上で巻2太宗本紀には1万以上の民を有する投下領主のみが記載されていること、巻95食貨志3にあって巻2太宗本紀に見られない投下領主は、上述の「1万以上の民を有する投下領主」から更に投下領の分配を受けた者達であると指摘した<ref>松田2010,62-63</ref>。要するに、モンゴル帝国のカアン(皇帝)は帝国を構成するウルスの当主たちに征服地を「投下領」として分配し、各ウルスの領主たちは更に配下の領侯(ノヤン)たちに領地を分配しており、前者のみを記録する史料(巻2太宗本紀)と両者ともに記録する史料(巻95食志3)が混在しているようである<ref>松田2010,64-65頁</ref>。
 
=== 遊牧地としての投下領 ===
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一方、ジョチ家の投下領である平陽路では、第2代皇帝オゴデイが自家の勢力を拡大させるため潞州一帯でクチュ・ウルスを成立させて以来、オゴデイ家の諸王がこの地で遊牧を営むようになった。クチュ家はオゴデイ後の帝位を巡る政争の中で没落したもののウルス目体の存統は許され、引き続き平陽路南部ではオゴデイ家の人物が遊牧に利用していた<ref>村岡2002,154-157頁</ref>。[[1289年]](至元26年)にはクチュの末子ソセがそれまで居住していた汴梁路睢州が温暖で放枚にあわないとの理由から潞州に移住してきた。アジギとソセの2人は数十年にわたって山西地方に住まい、『集史』「クビライ・カアン紀」においても「オゴデイとチャガタイの一族(ウルク)」として一緒に名前が挙げられているように、大元ウルス内のオゴデイ・チャガタイ家王族の代表者と見なされていた<ref>村岡2002,163-164頁</ref>。
 
これら、投下領に居住した諸王は基本的に先祖伝来の遊牧生活を守り、中国伝統の定住生活になじまなかった。当然のことながら、遊牧生活を順守する諸王の存在は地域社会と軌幌軋轢を生み、『元史』中には「モンゴル王侯が民田を荒らした」といった記録が多数残されている。大元ウルスの朝廷でも諸王と現地住民の軋轢は問題視されており、朝廷は投下に居住する諸王に食料・銀錠を定期的に与える政策を行った<ref group=注釈>例えば、『元史』巻巻19成宗本紀2大徳元年春正月辛卯の条には「諸王アジギは太原に駐留し、河東の民がアジギへの供出に困窮したため、詔してこれを詰問し、アジギに歳ごとに鈔三万錠・糧万石を与えることにした(諸王阿只吉駐太原、河東之民困於供億、詔詰問之、仍歳給鈔三万錠・糧万石)」とある。(李1992,4-6頁)</ref>。
 
このような、投下領に住まうモンゴル牧民と現地農民の軋轢は、投下領から逃亡する農民を増やし、投下制度破綻の一因となったと評されている<ref>岩村1968,463-464頁</ref>。
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この聖旨には、仏教・キリスト教・道教・イスラーム教といった全ての宗教教団に対し、モンゴル人のため「天を祈って我々に祝福を与え」る限り、徴税(地税・商税・差発)を免除するという基本方針が示されている<ref>川本2013,160-161頁</ref>。このような姿勢は投下領主による投下領内の宗教教団に対する命令にも反映されており、東アジア地域(大元ウルス領)には投下領主が宗教教団を庇護する命令を下した記録(主に碑文)が多数残されている。
 
モンゴル時代の東アジアにおける宗教政策で、他の時代と比べ顕著な相違点の一つが「宗教者の資格認定(=度牒)」が政権側でなく宗教者側にあったことが挙げられる<ref>高橋2011,249-251頁</ref>。例えば直近の宋朝や金朝では「度牒」の最終的な発行権は[[礼部]]にあるのであって、師が弟子の得度を勝手に行えるわけではなかった。モンゴル時代では宋・金とは異なり、例えば仏教教団では「総統所」と呼ばれる僧侶を統轄する機関を設け、僧侶の選抜・試験・度牒の給付を担わせ、最後に合格者の名簿のみを政権側(省部)に報告させていた。そして、「度牒」の発行者たる「提」は投下領ごとに配置され、漢地(ヒタイ地方)全体を統べる「都総統(仏教教団の長)」もしくは「掌管漢地道門(道教教団の長)」との相談の上、「度牒」を発行した<ref>高橋2011,252-253頁</ref>。このように、投下ごとに宗教団体の代表者が置かれ、それらを宗教団体全体の長が統べるというあり方は、その宗教団体の組織化(教団化)を進めた。モンゴル時代の著名な文人、[[虞集]]はこのような宗教教団のあり方を指して「文書のやり取りをして、まるで官僚制のごときものを敷く(得行文章視官府)」と評している<ref>高橋2011,259-261/269頁</ref>。
 
== 研究史 ==
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=== 3期(1993年~2010年代) ===
松田孝一に続き、投下制度研究に多大な影響を与えたのが[[杉山正明]]の「八不沙大王の令旨碑より(杉山1993)」 であった。杉山は従来の投下制度研究について「分散する記述を寄せ集めて総合化する手法に終始したため、実体論への糸口を掴めなかった」ことを指摘し、確実な個別事例に基づいた具体像を明らかにする研究が必要だと論じた。そこで杉山が注目したのが従来の研究では用いられてこなかった「碑文史料」の存在で、碑文に刻まれた投下領主の命令(モンゴル命令文)を考察することでカサル家投下領の構造を実証的研究に基づき明らかにすることに成功した。その上で、(1)華北の州県は投下領を前提として成立したこと、(2)モンゴル高原・華北・江南の投下はそれぞれ密接に連携していたこと、 (3)所謂「元朝の成立」後、むしろ投下領主の権限は強まったことなどを指摘し、愛宕らの主張する「投下領はモンゴル王侯にとって名目的な封邑に過ぎなかった」という説を批判した。
 
杉山の研究は様々な面で多くの研究者に影響を与えたが、投下制度研究に関していえば(1)個々の投下に関する徹底的な実証、(2)碑文史料、特にモンゴル命令文を用いた研究、という2つの大きな流れをもたらした。例えば[[高橋文治]]による一連の研究(高橋2011に纏められている)はモンゴル投下領主から道教教団に出された命令文書を体系的に考察し、投下領主が教団の有力者と密接な関係を有していることを明らかにした。また、[[村岡倫]]は山西地方における投下領に注目し、この地方では投下領主自身による遊牧が行われたこと、いいかえると投下領は「遊牧本領」としても用いられていたことを実証した。
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=== 中央アジア(トルキスタン) ===
チンギス・カン治世時より諸王功臣に分撥されていたが、一部を除いて記録が残されていない。
 
=== イーラーン・ザミーン ===
モンケ治世時に人口調査・万人隊編成が行われたが、諸王功臣に分撥されたかは不明。
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! 備考
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| [[黒竜江]]<ref group=注釈>ダアリタイ家の遊牧本領の所在地を明言する史料はないが、ダアリタイ家の王族が残した「ウマ年ハルハン大王令旨碑」は「黒竜江にいる時に書いた(黒竜江有時分写来)」と記されている。田善之はダアリタイ家の華北投下領が華北の中でも最も東北に位置することを踏まえ、ダアリタイ家の本領は黒竜江に存在していたのではないかと指摘している(田2014,45-46頁)。</ref>
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