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{{日本陸軍}}
'''陸軍経理学校'''(りくぐんけいりがっこう)は[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[軍学校]]のひとつである。主として陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育、あるいは経理官への上級教育を行うとともに、った。そのほか陸軍経理に関する調査と研究、また図書の出版も行った。陸軍経理とは会計だけに限らず、[[監査]]、[[被服]]、[[糧秣]]、[[建築]]も職務に含まれる。[[1886年]]([[明治]]19年)8月に設立された'''陸軍軍吏学舎'''を前身とし、[[1890年]](明治23年)11月に陸軍経理学校が開校された。
 
教育の対象者と教育内容は開校以来何度となく変遷し多様であったが、その中では明治時代後期より大正時代後期まで存在した陸軍主計候補生や、[[1935年]]([[昭和]]10年)12月に定められた経理部士官候補生、あるいは多数の卒業者を出した幹部候補生が比較的よく知られている。兵科将校となる士官候補生を教育する[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]を場合により「陸士」と略すことに対比して、経理部士官候補生を教育する陸軍経理学校が「陸経」と略される場合もある<ref group="*">陸軍部内文書では「経校」と略されたものが散見される。部内では「陸」の字が意味を持たないためである。</ref>。
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==沿革==
===陸軍黎明期の経理部門===
[[1868年]](明治元年)旧暦1月、明治新政府の中に軍事を管掌する海陸軍科が設けられ、翌月には軍防事務局と改称した<ref name="hensen">「陸軍経理組織の変遷と内部監査制度」</ref>。同年旧暦閏4月、さらに官制の改革により軍防事務局は[[軍務官]]となり、軍務官の下に陸軍局が作られた<ref>『法規提要』下巻431頁</ref>。[[1869年]](明治2年)旧暦7月、政府の制度はまた変更し軍務官は[[兵部省]]となり、省内に'''会計司'''が作られた。これが日本軍初の会計部署であり、当時の軍事会計はまだ陸軍と海軍が分化されていなかった。[[1871年]](明治4年)旧暦7月、兵部省内に陸軍部と海軍部が設置された。陸軍部は5つの局から構成され、そのうち第五局が会計局として「金穀度支(きんこくたくし)<ref group="*">金穀(きんこく)は金銭と穀物。金品のこと。度支(たくし)は中国の官制を語源とする経理機関のこと。『広辞苑』第三版</ref>、勘査、被服、糧食、住居等の経理を司る<ref group="*">原文の旧仮名づかい、旧字体の漢字と片仮名書きを、新仮名づかい、新字体と平仮名書きに改め、漢字の一部は平仮名にし適宜読点を加えた。以下引用文はすべて同じ。</ref>」となっていた<ref>{{アジア歴史資料センター|C09060001900|明治4年より8年に至る 規則条例(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref name="hensen" />。この'''兵部省陸軍部第五局'''の設置によって陸軍独自の会計・経理部門が誕生した。当初、第五局の人員は59名であった<ref>『陸軍経理部』234頁</ref>。黎明期における陸軍の経理担当[[武官]](以下「経理官」と表記)は、要人の知人や推薦された者の中から旧藩時代の勘定方など適当な人物を選んだり、兵科[[将校]]や陸軍に出仕する[[文官]]を転用したり、他省に在職する人材を招聘するなど、一定の方針のもとに養成を行う段階ではなかった<ref>『陸軍経理部』231頁</ref><ref>『陸軍経理学校沿革略史』2頁</ref>。
[[File:Mitsuaki Tanaka.jpg|190px|thumb|初代陸軍省会計局長 [[田中光顕]](後年の肖像)]]
 
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* 商業学校・工業学校(建築・土木・応用化学・染色・紡績)・農業学校(農産製造)の卒業者。
 
上の条件を満たし、かつ最終学歴の学校教練検定に合格している者に限られる<ref>{{アジア歴史資料センター|A03022181500|御署名原本・昭和十三年・勅令第一三七号・陸軍補充令中改正}}</ref>。幹部候補生はまず所属部隊で基本教育を受けたのち、予備役将校に適すると認められ'''経理部甲種幹部候補生'''に選抜されると主計軍曹の階級で陸軍経理学校に入校した。幹部候補生教育開始当初は陸軍経理学校に幹部候補生隊を設置せず、幹部候補生は下士官候補者隊で起居し訓育が行われた<ref>{{アジア歴史資料センター|C01001717800|永存書類 甲輯 第4類 第1冊 昭和14年(防衛省防衛研究所)}}</ref>。なお前述した19341939年8月の学校令中改正に先立つ1938年(昭和13年)1月、甲種幹部候補生教育を各所属部隊で終えた予備役経理部見習士官187名が陸軍経理学校へ入校し、試験的に集団教育を実施している<ref>{{アジア歴史資料センター|C01004471200|密大日記 第7冊 昭和13年(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>『陸軍経理部』332頁</ref>。
===太平洋戦争下の教育===
[[1941年]](昭和16年)12月、日本は米英など連合国に対して全面的な戦争を開始し、日中戦争は[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])へと拡大した。翌[[1942年]](昭和17年)3月、人員が増大した陸軍経理学校は[[東京府]][[北多摩郡]][[小平市|小平村]]に移転した<ref>彙報 陸軍経理学校移転 [{{NDLDC|2961067/40}} 『官報』第4565号、1942年3月31日]</ref>。同村の学校用地は30万[[坪]]の広さがあったとされる<ref>『陸軍経理部』333頁</ref>。