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==生涯==
[[宋 (南朝)|南朝宋]]の[[范曄]]編纂の『[[後漢書]]』[[列女伝]]は次のように記す。蔡琰は河東郡の衛仲道の妻となる<ref>魏[[丁廙]]作『蔡伯喈女賦』では婚姻時16歳、明[[張瑞図]]編『日記故事大全』巻2では15歳</ref>が、早くに先立たれたため婚家に留まらず実家に帰った。[[興平 (漢)|興平]]年間([[194年]]-[[195年]])、[[董卓]]の残党によって乱が起こると、蔡琰は[[匈奴]]の騎馬兵に拉致され、[[南匈奴]]の[[劉豹 (匈奴)|劉豹]]に側室として留め置かれた<ref>『[[晋書]]』劉元海載記に「於扶羅死,弟呼廚泉立,以於扶羅子豹為左賢王,即元海之父也。」とあるが、『[[三国志]]』[[鄧艾]]伝では劉豹は右賢王と記されている。『[[後漢書]]』[[列女伝]]では「興平中,天下喪亂,文姬為胡騎所獲,沒於南匈奴左賢王,在胡中十二年,生二子。」と書かれているのみで、この左賢王が必ずしも劉豹を指しているとは限らない。</ref>。匈奴に12年住む間に劉豹の子を2人をもうけた。[[建安 (漢)|建安]]12年([[207年]])、父と親交のあった[[曹操]]は蔡邕の後継ぎがいないことを惜しみ、匈奴に金や宝玉を支払って蔡琰を帰国させた。帰国時に実の子を匈奴に残しており、子との別離に際しの苦痛を詩を述べた。帰国後、曹操の配慮で同郷出身の屯田都尉董祀に嫁いだ。その董祀が法を犯し死罪になるところであったが、蔡琰は曹操を説得して処刑を取り止めさせた。のちに曹操の要求で失われた父の蔵書400編余りを復元した際、誤字脱字は一字もなかった。
===没年===
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