削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
m 概説: 不要なマークアップ除去、出処不明の行政区域変遷内容除去
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
29行目:
== 概説 ==
{{See also|相浦町#歴史}}
相浦川沿いの[[俵ヶ浦半島]]に至る相神浦谷(相神浦七ヶ村)周辺は、国内屈指の旧石器・縄文遺跡の密集地帯である。[[泉福寺洞窟]]・[[岩下洞穴]]などの[[岩陰遺跡|岩陰]]がある他、膨大な量の[[縄文土器]]・[[滑石製石鍋|石鍋]]・石器類が出土し縄文土器の編年にも寄与するなどした'''門前遺跡'''<ref name=":0">[https://web.archive.org/web/20150402141748/http://www.pref.nagasaki.jp/jiten/index.php/view/35 門前遺跡](縄文〜近世).長崎県の遺跡大辞典.2015年4月2日時点の[https://www.pref.nagasaki.jp/jiten/index.php/view/35 オリジナル]{{リンク切れ|date=2021年4月}}よりアーカイブ</ref>・'''竹辺遺跡群'''<ref>[https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/46433 竹辺A~E遺跡群](旧石器〜近世)</ref> <ref>[https://data.bodik.jp/dataset/422029_historic/resource/d8e8dd36-4b35-4446-bd1b-7feb333d16a0 佐世保市オープンデータサイト]</ref>・'''小野遺跡群'''<ref>[https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14796 小野A~F遺跡群](旧石器/縄文)</ref>・'''大潟遺跡群'''<ref>大潟A〜F遺跡群(旧石器〜縄文)</ref>などの発掘調査で、古来より対外貿易においても拠点だった事が判明。門前遺跡で作られた大型石斧は、[[北松浦半島]]縄文人によって、[[黒曜石]]・[[隆起線文土器]]・玦状耳飾りとともに朝鮮半島(東三洞)に持ち込まれ、それ等は同半島で最古の遺物である<ref>“[https://www.museum.go.kr/site/jpn/relic/represent/view?relicId=4328 櫛目文土器 | 名品ギャラリー]”.国立中央博物館(韓国)</ref>。また門前遺跡からは、国内最古形式(祖型)で東アジアでも最古級(朝鮮半島より古い)の木棺墓<ref>(2004年2月25日)“[https://web.archive.org/web/20040408220635/http://www.asahi.com/culture/update/0225/001.html 最古級の木棺墓がほぼ完全な状態で出土 門前遺跡]”.asahi.com.2004年4月8日時点の[http://www.asahi.com/culture/update/0225/001.html オリジナル]{{リンク切れ|date=2021年4月}}よりアーカイブ</ref> <ref>“門前遺跡の木棺墓に使用されたクスノキの炭素年代は約'''2400年前''' (読売新聞)”.[http://www.tt.rim.or.jp/~shr/nl/20042c.html#25 「きまぐれNEWSLINK (2004年2月25日)」]『考古学のおやつ』。</ref>・国内最古建築形式の胴張形掘立柱(エンタシス)建物跡、九州では殆ど出土例のない硬玉製の大珠・硬玉製の玦状耳飾り等も発掘された<ref name=":0" />。
 
古くは「相神浦(あいこうのうら)・相ノ浦」ともいい、平安・鎌倉時代には[[松浦党]]の相神浦氏の拠点、室町時代からは宗家松浦氏が拠点とした。[[伊能忠敬]]は全国[[測量]]の途次、ここ相神浦において[[文化_(元号)|文化]]10年(西暦[[1813年]])の新年(旧暦)を迎え、狂歌も詠んでいる。
 
大潟町に'''水銀山'''(白玉山)・高岳の2ヶ所の水銀鉱跡(西九州鉱床群相ノ浦層)があり、江戸時代末期に[[水銀]]を採掘した時期があった<ref>角川日本地名大辞典 42 長崎県「大潟」</ref>。この水銀鉱は後の調査により、日本で唯一「'''[[自然水銀]]'''・[[辰砂]]・黒辰砂(自然水銀より希少)・角水銀鉱」4種全てを産出する事が判明している<ref>堀純郎「[https://www.gsj.jp/publications/pub/rep-gsj/houkoku1953.html 本邦の水銀鑛床]」『地質調査所報告』第154號、地質調査所、1953年3月、55、115頁。</ref> <ref>[https://www.trekgeo.net/m/e/calomel1.htm 日本の角水銀鉱の産地]. 鉱物データベース</ref>。嘗て自然水銀は手のひらで掬えるほど湧出し、明確に天水成鉱物と判定出来る角水銀鉱は海に面した相浦の物だけである<ref>堀純郎「[https://www.gsj.jp/publications/pub/rep-gsj/houkoku1953.html 本邦の水銀鑛床]」『地質調査所報告』第154號、地質調査所、1953年3月、68頁。</ref>。
 
現在の相浦地域は[[1889年]](明治22年)、[[町村制]]施行により、相神浦村山口村と相神浦村新田村の2村が合併し北松浦郡'''山口村'''として発足。[[1930年]](昭和5年)に町制施行、改称し北松浦郡'''相浦町'''となり<ref>長崎縣告示第二百一號『[http://www.lib.pref.nagasaki.jp/koho/contents/1311739295//S05kouhou1//S0504//S05040801.jpg 村を町とし名称変更の件(北松浦郡山口村)]』 長崎県公報 昭和5年4月8日付</ref>、[[1938年]](昭和13年)に佐世保市に編入された。
 
明治以降、昭和30年代頃までは[[北松炭田]]からの[[石炭]]積み出しなどで栄えた。現在の[[松浦鉄道西九州線]]の前身である[[佐世保鉄道]]はもともと相浦港への石炭輸送のために建設されたものである。[[炭鉱]]閉山後は川下町に[[長崎県立大学]]や総合グラウンドが建設された他、佐世保中心街に対する[[ベッドタウン]]として住宅建設が進んでいる。