「セルギウス1世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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| 本名 =
| 生年月日 = 650年頃
| 生地 = [[ファイル:Black flag.svg|border|25x20px]][[正統カリフ]]、[[歴史的シリア|シリア]]
| 没年月日 = 701年9月8日
| 没地 = [[ファイル:Byzantine imperial flag, 14th century, square.svg|border|20x20px]][[東ローマ帝国]]、[[ローマ]]
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'''セルギウス1世'''(650(Sergius I, 650年頃? - [[701年]][[9月8日]])は、第84代ローマ[[教皇]](在位:[[687年]][[12月15日]] - 701年9月8日)。
 
== 生涯 ==
家系は[[アナルコリア]]南部[[アンティオキア]]の[[歴史的シリア|シリア]]人でシリアの出身。[[パレルモ]]で育った。先代のコノンの死後、教皇庁では[[テオドルス (対立教皇)|テオドルス]]と[[パスカリス (対立教皇)|パスカリス]]という2人の[[対立教皇]]が抗争して混乱した。[[アデオダトゥス2世 (ローマ教皇)|アデオダトゥス2世]]からコノンまで歴代教皇に仕えて影響力のあったセルギウス1世は、対立教皇を嫌った[[ローマ]]の市民より新たに教皇として擁されて対立教皇を廃した。
 
[[ラヴェンナ総督]]は最初は承認を渋ったが、セルギウスは対立教皇のパスカリスが約束した賄賂を支払うことで承認を得た。しかし[[東ローマ皇帝]]である[[ユスティニアノス2世]]は全教会の支配を企み、[[692年]]に[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノープル総主教]]の主導で行なわれた[[トゥルロの公会議]]で決定された条項に署名するよう命令する。これは聖職者の結婚を不許可とし、キリスト教会は東を主とするものであった。しかしセルギウス1世はこれを拒絶し、聖職者の結婚を認めるという報復に出た。
 
怒った皇帝は、[[ザカリアス]]{{要曖昧さ回避|date=2019年8月}}に軍隊を送って圧力をかけるが、ラヴェンナ総督の裏切りで失敗した。しかも[[695年]]には[[レオンティオス]]のクーデターでユスティニアノス2世が廃されたため、対立は解消された。
 
以後は礼典の改革、[[サン・ピエトロ大聖堂]]の修復に努めた。701年9月8日に死去。
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* 『ローマ教皇事典』([[三交社]])
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{{ローマ教皇|84代:687年 - 701年}}
 
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:せるきうす01}}
[[Category:7世紀の教皇]]
[[Category:シリア8世紀キリスト]]
[[Category:シリアのローマ教皇]]
[[Category:シリアのキリスト教徒]]
[[Category:シリア出身の人物]]
[[Category:シリアのキリスト教徒]]
[[Category:7世紀生]]
[[Category:701年没]]