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== 伊予国以外の河野氏 ==
[[宮崎県]]と[[大分県]][[奥豊後|奥豊後地方]]に河野(かわの)姓が多い。とくに宮崎県の河野氏は『[[都城市]]史』には[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に伊予より[[日向国|日向]]に上陸したとの記述がある。南北朝時代以前の書簡、絵詞では河野氏([[河野通有]]含む)は「かわの」と記されており、南北朝時代以降、時代が下るにつれ「こうの」という読み方に変化していったと考えられている。
『[[小林市]]史』には[[河野通貫]]の代の[[貞治]]5年([[1366年]])6月[[宮崎郡]]下着、その後数代を経て[[河野正弘|河野伊予守正弘]]の代に[[日向国]][[三俣院]][[高城町 (宮崎県)|高城]]の有水村に居住して長峯門を領し、長峯土佐守と称した。更にその後数代経て[[長峯通貴|長峯玄蕃允通貴]]の代に真幸院三之山東方村赤木門を知行したので孫の通信の代に[[赤木氏]]を称するようになったとある。また『宮崎県史 史料編』では、[[室町時代]]の[[享禄]]4年[[真幸院]]の在地領主として[[河野通安|河野四郎通安]]の名前を見ることができる。いずれも通字として河野氏の通字「'''通'''」を継承しており、[[中世]]よりつながりがあると伝わる。
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