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|特記事項 = 特記なければ、2003年3月31日時点のデータ。同年4月1日に[[エニックス]]と合併。
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'''株式会社スクウェア'''({{Lang-en-short|SQUARE CO., LTD.}})は、かつて存在した[[日本]]の[[コンピュータゲーム]]ソフト会社。[[2003年]]([[平成]]15年)[[4月1日]]に同業の[[エニックス]]と[[合併 (企業)|合併]]し、'''[[スクウェア・エニックス]]'''となった。以下ではこの旧スクウェアについて解説する。
古くは『[[ディスク・オリジナル・グループ]] DOG』などで[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]向けソフトを開発していた。同社発売の『'''[[ファイナルファンタジーシリーズ]]'''』はエニックス(現スクウェア・エニックス)発売の『[[ドラゴンクエストシリーズ]]』と並ぶ、日本での[[コンピュータRPG]]の両巨頭である。
== 概要 ==
[[File:Logos Square Co Ltd.jpg|thumb|right|200px|スクウェアの過去のロゴ一覧。]]
[[1983年]]([[昭和]]58年)10月に創業者・[[宮本雅史 (投資家)|宮本雅史]]の父が経営する[[徳島県]]の電気工事会社[[電友社]]のソフト開発部門として設立されたが、[[1986年]](昭和61年)9月に独立。設立当初の[[資本金]]は1000万[[円 (通貨)|円]]。[[2002年]](平成14年)3月31日当時の資本金は119億4500万円。また、元[[社長]]・[[武市智行]]の出身である[[四国銀行]]との関連も深い。
創業時に[[事業所]]を置いたのは、[[コーエー|光栄]]と同じ[[神奈川県]][[横浜市]][[港北区]][[日吉 (横浜市)|日吉]]だった。ここでは人材確保を目的に、40台もの最新[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]を自由に使える会員制[[サロン]]を開設していた。かくしてすぐ目の前にある[[慶應義塾大学]]日吉キャンパスや、[[横浜国立大学]]、[[神奈川大学]]など[[横浜市|横浜]]周辺に[[キャンパス]]を置く[[大学]]の学生たちが出入りするようになる。その中からは同社で[[アルバイト]]を始め、そのまま正式入社した者もおり、同社の初期作品を手がけたスタッフには[[:Category:神奈川県の大学|神奈川県にある大学]]の出身者が多い。
創業から半年後の[[1984年]]春、サロンの会員から選ばれたメンバーと公募で集められた者、計10名のスタッフによる[[ゲームソフト]]開発が開始される。当初は[[日本電気|NEC]][[PC-8801|PC-8801シリーズ]]を中心としたパソコン用の[[アドベンチャーゲーム]]や[[ロールプレイングゲーム]]を主力商品とした。シナリオ面でも評価はされたほか、ビジュアル性にこだわりを見せた内容がクローズアップされる事が多かった。部分的ではあるが[[アニメーション]]を取り入れた『[[ウィル デス・トラップII|WILL デス・トラップII]]』、パッケージイラストに[[いのまたむつみ]]を起用した上にゲーム本編の[[アニメ]]風ビジュアルで人気となった『[[アルファ (ゲーム)|アルファ]]』、[[サンライズ (アニメ制作会社)|日本サンライズ]]と組んで内容面でもビジュアル面でも[[ロボットアニメ]]の雰囲気を強く打ち出した『[[クルーズチェイサー ブラスティー]]』などはゲーム情報誌でも大きく取り上げられた。またラインナップ充実のため、他社作品の移植にも力を入れていた。
[[1985年]](昭和60年)から[[任天堂]]とライセンス契約を結び[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]用ソフトを提供し始める。ファミコン市場への参入は開発スタッフからの要望に応えてのものだったという。当時のパソコンは機種ごとに独自仕様であり、後継機種であっても従来機のソフトが動かない事も多く、[[移植 (ソフトウェア)|移植]]にも新規開発と同等に労力を要したのに対し、ファミコンには内部仕様の変更はあれどハードの変更がなく、また移植の必要もないのでより腰を据えて開発に臨めるという理由からである<ref>[[辰巳出版]]刊『パソコンゲーム80年代記』(1990年5月発行)掲載のメーカーインタビューによる。</ref>。[[1986年]]には、ファミコン初の[[アクションRPG]]として『[[キングスナイト]]』を発表した。しかし実質、RPG要素の薄い従来型のシューティングゲームであり、販売本数も伸びなかった。その後もパソコンゲームメーカーと組んで[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]で多くのゲームを送り出す [[ディスク・オリジナル・グループ|DOG(Disk Original Group)]] ブランドを展開するなど意欲を見せるも、なかなかヒット作を出せずにいた。
市場からの撤退も考えていた中、[[坂口博信]](後に副社長)らが開発し、[[1987年]]に発売された『'''[[ファイナルファンタジー]]'''』のヒットで飛躍の足がかりを掴み、その後は[[サガシリーズ|'''『サガ』シリーズ''']]、[[聖剣伝説|'''『聖剣伝説』シリーズ''']]等のRPGを主に制作、一気に大手メーカーとなった。
『ファイナルファンタジー』のヒットは同社に多大な利益をもたらした。一時期の事業不振で[[銀座]]<!--ちなみに[[豊田商事]]が入っていたビルをまるごと借りていた-->から[[御徒町]]の雑居ビルへの移転を余儀なくされていた同社が、再び[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]に本社を構えられるようになったのも『ファイナルファンタジー』シリーズのヒットによるものといわれている。『[[ファイナルファンタジーII]]』の発売と前後する時期、[[代々木]]で『ファイナルファンタジー』の[[キャラクターグッズ専門店|グッズショップ]]を展開した。このショップではスクウェアから[[ライセンス]]を得て各社が発行していた出版物等の他、イメージイラストを使用した[[マグカップ]]等オリジナルグッズも扱っていた。<!--余談だがこのショップの閉店後、その空いたテナントには僅かに遅れてショップ運営を開始した[[日本ファルコム]]の[[ファルコムショップ]]が入る事となる。-->
[[1992年]](平成4年)に宮本に代わり[[水野哲夫]]がスクウェアの社長に就任。[[ゲームボーイ]]用ソフトの開発を引き上げ、タイトルをスーパーファミコンに専念。ミリオンセラーを続々と叩き出し、株式店頭公開も行う。[[1995年]](平成7年)には本社を[[目黒区]]のアルコタワーに移転。同年は『[[ドラゴンクエスト]]』を手がけた[[鳥山明]]・[[堀井雄二]]と共に『[[クロノ・トリガー]]』を制作、更にはマリオシリーズのキャラクターを扱った『[[スーパーマリオRPG]]』も任天堂と共同制作し、同社は絶頂期を迎える。
[[1996年]](平成8年)、『[[トバルNo.1]]』で[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]に参入。そして翌[[1997年]](平成9年)に発売した『'''[[ファイナルファンタジーVII
[[2000年]](平成12年)5月、[[武市智行]]社長に変わって[[鈴木尚 (ゲームクリエイター)|鈴木尚]]副社長が社長となる。
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=== 社風 ===
[[1990年代]]には[[大阪市|大阪]]に開発所を設けていたことがあり、「[[時空の覇者 Sa・Ga3]]」「[[ファイナルファンタジーUSA ミスティッククエスト]]」「[[ルドラの秘宝]]」「[[アインハンダー]]」などを生み出した。
[[1990年代]]後半の[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]制作が全盛の頃、[[ハワイ州|ハワイ]]の[[ホノルル]]に開発スタジオを置いていた時期もあり、坂口博信は現在もホノルルを拠点に活動している。
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