「定岡正二」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
→現役引退後: 無出典 |
||
57行目:
引退翌年の{{By|1986年}}2月に、[[生原昭宏|アイク生原]](当時は[[MLB]][[ロサンゼルス・ドジャース]]のオーナー補佐)の紹介によって、ドジャースのスプリングトレーニング(春季キャンプ)へ[[打撃投手]]として参加している。定岡本人によれば、「ジャイアンツを辞めた後に[[長嶋茂雄|ミスター(現役時代の監督だった長嶋茂雄)]]がアイク(生原)さんに連絡してくれたおかげで、ドジャースの(春季)キャンプに参加できた。そのおかげで、現役生活への未練をきっぱり切れたばかりか、引退後も野球を嫌いにならずに済んだ」とのことである。キャンプ中には、当時の主力投手([[フェルナンド・バレンズエラ]]や[[オーレル・ハーシュハイザー]])と同等の待遇を受けていて、ゲーム形式の打撃練習にも登板。自分の思った以上にスライダーが通用した結果、5イニングほど抑えられたため、[[トミー・ラソーダ]]監督から「サダオカ、お前、アメリカに残れ」という言葉を掛けられたという<ref name="WPB" />。
ドジャースのキャンプから日本への帰国を経て、1986年4月から[[TBSテレビ|TBS]]のスポーツキャスターに転身。[[野球解説者]]として同局のプロ野球中継へ出演するかたわら、2001年までは、[[イザワオフィス]]所属のタレントとして活動の場を[[バラエティ番組]]にも広げていた。[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]制作の『[[とんねるずの生でダラダラいかせて!!]]』(『生ダラ』)では、ゲストとしてへ出演した際に「おちゃのこさいさい」を「へなちょこさいさい」と言い間違えたことから、「へなちょこサダ」という異名を取ると共に準レギュラーへ起用。この頃から一時、非スポーツ系のタレント活動が主体になっていた。1997年には『生ダラ』の企画で、[[石橋貴明]]([[とんねるず]])、[[デビット伊東]]([[B21スペシャル]])と共に“ANDY'S”という音楽ユニットを結成。「[[FREEDOM (ANDY'Sの曲)|FREEDOM]]」というシングルCDのリリースに至った<ref group="注">定岡はベースを担当していたが、『[[とんねるずのみなさんのおかげです]]』([[フジテレビ]])に「ANDY'S」として出演した際に、自身の役割(ベーシスト)を「'''ベーサー'''」と言い間違えたことで共演者の爆笑を呼んでしまった。</ref>
1990年には、「チームサダオカwithゼンリンTS九州」の監督として、鈴鹿バイクレースに参戦していた。その一方で、故郷の鹿児島県から[[JR九州硬式野球部|国鉄鹿児島鉄道管理局野球部]]の廃部(1987年)以降[[社会人野球]]へ参加するチームが途絶えていたことを背景に、2005年からは県内で[[クラブチーム (社会人野球)|社会人野球クラブチーム]]の創設に尽力。県内最初のクラブチームとして同年に結成された[[鹿児島ドリームウェーブ]]の監督([[#人物|詳細後述]])を経て、2006年には[[薩摩 (社会人野球)|薩摩]](県内2チーム目のクラブチーム)を自ら創設するとともに、監督を兼務した。なお、薩摩の監督就任に際しては、任意引退扱いで退団した巨人を通じて[[NPB]]に自由契約扱いへの変更を申請。同年8月15日付で、[[自由契約選手]]としてNPBから公示された<ref>{{Cite web |url=http://npb.jp/announcement/2006/pn_released.html |title=自由契約選手 2006年度公示 |publisher=日本野球機構 |accessdate=2018-10-01}}</ref>。NPBによる1999年の規約変更に伴って、定岡のようにNPB加盟の球団へ選手として所属した者がアマチュア野球の選手・指導者へ転身するためには、NPBで最後に所属した球団を通じて自由契約の手続きを要することによる([[引退#任意引退|当該項に詳述]])。なお、薩摩は2006年9月19日に[[日本野球連盟]]への新規登録が認められたが、2019年2月28日付で活動を休止している。
|