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アレクサンドロス3世旗下の将軍たちは王の死後、その後継者([[ディアドコイ]])たるを主張して相互に争い、旧アレクサンドロス帝国領内に割拠した<ref name="ウォールバンク1988pp61_81">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], pp. 61-81</ref><ref name="シャムー2011pp59_95">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], pp. 59-95</ref>。この一連の戦いは[[ディアドコイ戦争]]と呼ばれ、その中心的人物の一人であった[[プトレマイオス1世|ラゴスの子プトレマイオス]](1世)がエジプトの支配権を確立し、前305年には王を称して独立王朝を築き上げた。この王朝は一般に'''[[プトレマイオス朝]]'''と呼ばれる<ref name="ウォールバンク1988p76">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 76</ref><ref name="山花2010pp160_162">[[#山花 2010|山花 2010]], pp. 160-162</ref>。
プトレマイオス朝はギリシア本土から多数のギリシア人を集めて領内に入植させるとともに、現地のエジプト人の伝統的勢力とも密接な関係を結んで、古代エジプトの歴代王朝の中でも最も長く存続した王朝となった。この王朝の時代には、入植ギリシア人らの集中的な移住による[[ファイユーム]]地方の干拓事業<ref name="周藤2014pp136_145">
[[ファイル:The Death of Cleopatra arthur.jpg|thumb|250px|クレオパトラの死、19世紀の絵画。{{仮リンク|レジナルド・アーサー|en|Reginald Arthur}}作。]]
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イスマーイール派政権であったファーティマ朝は成立当初、イフリーキーヤにおいてスンナ派への激しい攻撃を行い、数多くの亡命者や死者を出すなどしていたが<ref name="私市2002p207"/>、エジプトの征服に際してはシーア派の礼拝形式の導入を行うなどはしたものの、寛容な方針であたり、スンナ派住民の強制的な改宗などは行われなかった<ref name="三浦2002p274">[[#三浦 2002|三浦 2002]], p. 274</ref>。カリフ・[[ハーキム]](在位:996年-1021年)の時代に行われた過酷な弾圧こそ有名であるものの<ref name="菟原2010p9">[[#菟原 2010|菟原 2010]], p. 9</ref><ref name="ヒッティ1983p537">[[#ヒッティ 1983|ヒッティ 1983]], p. 537</ref>、キリスト教徒やユダヤ教徒はイスラーム期に入って以来かつてなかった程の寛容さを享受し、ファーティマ朝時代は非ムスリムの黄金時代であったともされる<ref name="菟原2010p9"/><ref name="ヒッティ1983p536">[[#ヒッティ 1983|ヒッティ 1983]], p. 536</ref><ref name="三浦2002pp274_275">[[#三浦 2002|三浦 2002]], pp. 274-275</ref>{{refnest|group="注釈"|当時のキリスト教徒(コプト教徒)はなお人口の40パーセントを占めていたとも言われる<ref name="菟原2010p9"/>。}}。[[ワズィール]](宰相)を始めとした政府高官職にキリスト教徒が任命されることも珍しくなく、キリスト教やユダヤ教の施設に支援が行われ、カリフがそれを訪れることもあった<ref name="菟原2010p9"/>。商工業や美術に対する統制も緩く、ファーティマ朝期のエジプトは経済的に繁栄し、工芸が栄えた<ref name="三浦2002pp275_276">[[#三浦 2002|三浦 2002]], pp. 275-276</ref><ref name="菟原2010p9"/><ref name="ヒッティ1983pp546_549">[[#ヒッティ 1983|ヒッティ 1983]], pp. 546-549</ref>。学術研究も盛んになり、アズィーズの時代に建設された[[アズハル・モスク]]付属の[[マドラサ]](学院)はその後エジプトを代表する教育機関へと発展した。これは今日でも[[アズハル大学]]として存続している<ref name="ヒッティ1983p551">[[#ヒッティ 1983|ヒッティ 1983]], p. 551</ref><ref name="コトバンクアズハル・モスク">[[#コトバンク アズハル・モスク|コトバンク]], 「アズハル大学」の項目より</ref>。そして、ハーキムの時代には、シーア派の教義を普及させるという目的を帯びて、「学芸/英知の館」([[ダール・アル=イルム]])と呼ばれる学術施設と基金が設立され、[[天文学]]や[[光学]]が発達した<ref name="ヒッティ1983pp552_554">[[#ヒッティ 1983|ヒッティ 1983]], pp. 552-554</ref>。
ハーキムの死後、王朝の実権は次第にワズィールたちの手に移るようになり、またベルベル人、テュルク人(トルコ人)、アルメニア人、ユダヤ教徒、キリスト教徒、黒人(スーダン人)など様々な勢力が複雑な権力闘争を繰り広げ、政治は不安定化した<ref name="三浦2002p275">[[#三浦 2002|三浦 2002]], p. 275</ref><ref name="ヒッティ1983p540">[[#ヒッティ 1983|ヒッティ 1983]], p. 540</ref><ref name="菟原1982">
同時に、東方のイラクでは新たな事態が発生していた。それは中央アジアから到来した[[セルジューク朝|セルジューク族]](サルジューク)の活動である。セルジューク族の首長[[トゥグリル・ベク]]は1055年にバグダードに入場し、現地を支配下に置いていた[[ブワイフ朝]]の勢力を放逐してアッバース朝のカリフを保護下に置いた<ref name="ヒッティ1983p254">[[#ヒッティ 1983|ヒッティ 1983]], p. 254</ref>。その後、ブワイフ朝のバグダード駐留軍司令官であった[[バサーシーリ]]が1058年にバグダードを奪還し、アッバース朝カリフの[[カーイム]]に強要してファーティマ朝のカリフに全ての権利とカリフの聖器を譲渡するという文書に調印させるという一コマがあったが、間もなくトゥグリル・ベクがバグダードを再占領し<ref name="ヒッティ1983p255">[[#ヒッティ 1983|ヒッティ 1983]], p. 255</ref>、11世紀後半にはセルジューク族がシリアとヒジャーズ地方をファーティマ朝から奪取した<ref name="ヒッティ1983p257">[[#ヒッティ 1983|ヒッティ 1983]], p. 257</ref>。
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* {{Cite book |和書 |author=[[池田美佐子]] |title=ナセル アラブ民族主義の隆盛と周縁|series=世界史リブレット 人 098 |date=2016-4 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-35098-4 |ref=池田 2016}}
* {{Cite book |和書 |author=[[井上文則]] |title=軍人皇帝のローマ |publisher=[[講談社]] |series=講談社選書メチエ |date=2015-5 |isbn=978-4-06-258602-3 |ref=井上 2015}}
* {{Cite journal |和書 |author=[[菟原卓]] |date=1982-9 |title=エジプトにおけるファーティマ朝後半期のワズィール職 |journal=[[東洋史研究]] |pages=321-362 |publisher=[[東洋史研究會]] |naid=40002659791 |url=https://doi.org/10.14989/153856 |accessdate=2019-8-29 |ref={{SfnRef|莵原
* {{Cite journal |和書 |author=[[菟原卓]] |date=2010 |title=ファーティマ朝国家論 |journal=[[文明研究]] |pages=1-21 |publisher=[[東海大学|東海大学文明学会]] |naid=40018875606 |url=http://civilization.tkcivil.u-tokai.ac.jp/img/tkc2901.pdf |accessdate=2019-8-22 |ref={{SfnRef|莵原
* {{Cite book |和書 |author=[[太田敬子]] |editor=[[歴史学研究会]]編 |chapter=第1章 イスラムの拡大と地中海世界 |title=多元的世界の展開 |publisher=[[青木書店]] |pages=26-61-169 |series=地中海世界史 2 |date=2003-5 |isbn=978-4-250-20315-2 |ref=太田 2003a }}
* {{Cite journal |和書 |author=[[太田敬子]] |date=2003 |title=マームーン時代におけるコプト教会とコプト共同体 : バシュムール反乱を巡る社会情況に関する一考察 |journal=日本中東学会年報 |volume=19 |issue=2 |pages=87-116 |publisher=日本中東学会 |naid=110004854377 |url=https://doi.org/10.24498/ajames.19.2_87|accessdate=2019-8-10 |ref=太田 2003b}}
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* {{Cite book |和書 |author=[[鈴木恵美]] |editor=[[酒井啓子]]編 |chapter=第1章 エジプト権威主義体制の再考 |title=中東政治学 |pages=21-34 |publisher=[[有斐閣]] |date=2012-9 |isbn=978-4-641-04997-0 |ref=鈴木 2012 }}
* {{Cite book |和書 |author=[[周藤芳幸]] |editor=[[桜井万里子]]編 |chapter=第一章 ギリシア世界の形成 |title=ギリシア史 |publisher=[[山川出版社]] |pages=15-50 |series=新版 世界各国史 17 |date=2005-3 |isbn=978-4-634-41470-9 |ref=周藤 2005 }}
* {{Cite book |和書 |author=[[周藤芳幸]] |title=ナイル世界のヘレニズム - エジプトとギリシアの遭遇 - |publisher=[[名古屋大学|名古屋大学出版会]] |date=2014-11 |isbn=978-4-8158-0785-6 |ref={{SfnRef|周藤
* {{Cite book |和書 |author=[[高橋両介]] |chapter=ある家族の衰退 クロニオン家の借財からみるローマ期エジプト農民の生活史 |title=古代地中海世界のダイナミズム |pages=322-346 |publisher=[[山川出版社]] |date=2010-6 |isbn=978-4-634-67219-2 |ref=高橋 2010 }}
* {{Cite journal|和書|author=[[高橋両介]] |date=2015-8 |title=ローマ期エジプトのパピルス文書 |journal=歴史と地理 |volume=244 |publisher=[[山川出版社]] |naid=40020585573 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/40020585573 |accessdate=2019-7|ref=高橋 2015 }}
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