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== 歴史 ==
[[画像:Montigny Mitrailleuse.jpg|thumb|leftright|37砲身[[:en:Montigny mitrailleuse|モンティニー ミトラィユーズ]],1863年開発。]]
最初のミトラィユーズは、前述のとおりベルギー軍のFafchamps大尉が<ref>{{citation | quote = Subject of all this secrecy was the twenty-five-year-old Fafschamps-Montigny Mitrailleuse, warmed over by De Reffye. This weapon was invented in 1851 | title = The Gatling Gun | page 43 | first1 = Paul | last1 = Wahl | first2 = Donald R | last2 = Toppel | url = http://books.google.com/books?id=lf9CAAAAIAAJ&q=Fafschamps&dq=Fafschamps&pgis=1}}.</ref><ref>{{citation | quote = In 1851, some twenty years before the outbreak of the Franco-German War, Captain Fafschamps, a Belgian officer, offered drawings of an invention to a fellow countryman, Monsieur Montigny | title = Machine Guns: Their History and Tactical Employment | page = 9 | authorlink = Graham Seton Hutchison | first = Graham Seton | last = Hutchison | url = http://books.google.com/books?id=z4ZCAAAAIAAJ&q=Fafschamps&dq=Fafschamps&pgis=1}}.</ref>1851年に開発した手動発射式の50銃身斉発砲である。彼は大まかな試作銃を製作し、彼の発明を描き残した<ref>''Machine Guns'' by James H. Willbanks p.35 [http://books.google.com/books?id=VWkYoAkoMHIC&pg=PA35&dq=Montigny+Mitrailleuse#PPA35,M1]</ref>。この機構は[[1850年代]]にLouis Christopheと[[ベルギー人]]のエンジニアであるJoseph Montignyによって改良され、37本の銃身を持つモンティニー ミトラィユーズとして完成された。後、Joseph Montignyは[[1859年]]に[[ナポレオン3世]]に彼の設計を用いるよう提案し、それがフランスにおけるReffyeミトラィユーズの開発へと至った。Montignyと[[:en:Jean-Baptiste Verchère de Reffye|Jean-Baptiste Verchère de Reffye]]が共同して設計したReffyeミトラィユーズは、[[1865年]]、フランス陸軍により制式採用が決定された。
 
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== 技術上の特徴 ==
=== 設計 ===
[[画像:Rear view of 25-barrel Reffye mitrailleuse, Musée de l'Armée.jpg|thumb|leftright|de l'Armee博物館所蔵の25銃身を持つReffyeミトラィユーズ。]]
[[画像:Mitrailleuse sideplan.png|thumb|right|Reffyeミトラィユーズの側面設計図。]]
ミトラィユーズは基本的な構成要素を設計に共有しつつも、幾種かの概念による派生型が開発された。これらの特徴は数十本の施条された銃身を互いに集束して既存の火砲用砲架へ据砲、または一つのモデルの場合であるが、三脚架に搭載したものである。弾薬は1つのブロックに保持され、銃身後端にて開放された薬室へと収められた。手動閉鎖レバーまたは大型の水平ネジの操作により全ての銃身が同時に装填され、2つ目のレバーを素早く操作して(一部のモデルではクランクを回して)各銃身を連続して発射した。こうしたことからこの兵器には、フランス語のニックネームである'''moulin à café'''(コーヒー挽き)がもたらされた。非常によく似た名前としては、[[南北戦争]]時に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で投入された、手回し式・機械式装填・連続発射・回転式多銃身の[[エイガー機銃|コーヒーミル・ガン]]があげられる。
 
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=== 弾薬と発射速度 ===
[[画像:Reffye_mitrailleuse_mechanism.jpg|thumb|right|Reffyeミトラィユーズの作動機構。]]
[[画像:Magazine plate of a Montigny Mitrailleuse.jpg|thumb|right|モンティニー ミトラィユーズの弾薬板。37発の弾薬を収容するよう設計されており、射撃前に薬室へスライド式に挿入する。]]
[[画像:Reffye mitrailleuse bullet magazine housing.jpg|thumb|right|Reffyeミトラィユーズの弾薬ブロックを収めるハウジング部分。]]
[[画像:Reffye Canon A Balles before 1923.jpg|thumb|right|Reffyeミトラィユーズの25銃身部分]]
ミトラィユーズは手動で装填するため、その発射速度は操作者の技量に大きく依存していた。熟練射手によるReffyeミトラィユーズは標準的な射撃では1分につき4度の連射(100発)を継続でき、非常事態ならば1分につき5度の連射(125発)に達した。1度の連射(25発)の発射速度は、射手が銃尾部の右側に装備されている小さな手動クランクを操作することによって調節された。つまりこの兵器の25本の銃身は一度に発射されるのではなく高速連射されるものであった。675kgという大重量によって、Reffyeミトラィユーズは射撃中に反動でぶれることが無かったが故に一連の発射の後に目標に対する再照準の必要はなかった。射撃時に反動がないことは普通の野砲に勝るかなりの利点として、Reffyeにより売り込まれた。通常のreffyeミトラィユーズの砲列では、各砲列に6門をほぼ横並びに並べて同時に発射した。
 
[[画像:Reffye_mitrailleuse_muzzle.jpg|thumb|leftright|Reffyeミトラィユーズの銃口。]]
Reffyeミトラィユーズは13mmのセンターファイア式薬莢を使用した。これはGaupillatによって設計されたもので、当時の弾薬の設計では最高水準の技術を代表していた<ref>Huon,1986</ref>。この弾薬は現代の細長い散弾銃用実包に類似していた。センターファイア式で、縁付きの真鍮製の頭部とダークブルーで強化されたボール紙の薬莢体であった<ref>Huon, Jean. ''Military rifle and machine gun cartridges'' (Arms & Armor Press, 1988)</ref>。重量50g、口径13mmのパッチ付き弾頭は圧縮済みの黒色火薬で推進され、砲口初速は480m/sで、シャスポー銃またはドライゼ銃の弾薬より3.5倍強力であった。これは当時存在した最も強力な小銃サイズの弾薬である。Reffyeミトラィユーズは口径11mmのシャスポー銃用の紙製燃焼薬莢には対応しなかった<ref>Huon, 1986</ref>。
 
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== 開発 ==
[[画像:Mitrailleuse front.jpg|thumb|leftright|フランスのパリに所在するde l'Armée博物館所蔵のReffyeミトラィユーズ「Le Général Duchand ("Canon à balles modèle 1866")」、前面からの写真。]]
ミトラィユーズはフランス陸軍での運用によって最も良く知られているが、実際には最初の使用は1850年代のベルギーでなされ、これは要塞の壕を防御するための固定兵装であった。それは50本の銃身を持ち、撃針発火式で、紙製薬莢を用いる兵器であり、Fafschampsによって設計された。それから後の[[1863年]]、この兵器は37本の銃身へと改善され、11 X 70R mmのセンターファイア式弾薬を使用し<ref>Huon,1986</ref>、装輪式の火砲用砲架に搭載されるものとなっていた。この変容は産業的な冒険としてChristopheおよびJoseph Montignyにより実行された。彼らは[[ブリュッセル]]近郊のFontaine-l'Evêqueでこれを行い、新兵器をヨーロッパへ売り込もうと努めた。
 
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ミトラィユーズはこの戦争で、大きな戦いの多くに投入されたが、数は少なく、Reffyeの派生型を含め190門だけがフランス陸軍の全保有数であることは、大いに戦場でのこれらの銃の効果を制限した。これらの銃が作戦運用上の欠陥を持つことは戦場において深刻な問題だった。ミトラィユーズは本質的に弾道の観念に厳密であり、砲兵員はかなり遠くの目標に対し、しばしば十分に速く敵に照準を合わせることができなかった。さらにまた、個別の25発斉射は非常に集弾性が狭く、長距離でさえ横方向の分散が欠けていた。さらに悪いことには、複雑な射撃機構は未熟な砲兵員の手による破損に弱かった。黒色火薬の燃焼の残滓と砲尾の完全な閉鎖の困難性から作動機構を汚損することは、長時間の射撃後の問題として報告された。
 
[[画像:Jb13.jpg|thumb|leftright|普仏戦争時に強襲を受けるReffyeミトラィユーズ。]]
Reffyeミトラィユーズが本領を活かして投入された2、3の例では、彼らが重大な衝撃を与えられることを示した。Gravelotteの戦闘では、バーブ大尉のミトラィユーズの砲列が標的を射程内に素早く発見し、密集していたプロイセン軍の歩兵連隊を壊滅させ、この戦闘での異例に高いプロイセン軍の犠牲者数に寄与した。また、ミトラィユーズが効果的に銃撃を行った他の例としては、Saint PrivatおよびMars-la-Tourの戦いが記録されている。しかしほとんどの場合、ミトラィユーズは効果がないと判明した。この戦争の後、シャスポー小銃の射撃は、Reffyeミトラィユーズのそれよりはるかに多数のプロイセン軍側の犠牲者を生じさせたと結論された。しかしながら、約100,000挺のシャスポー小銃が常に戦闘にて交戦したのと対照的に、Reffyeミトラィユーズは常時200門以下が戦闘に投入された。
 
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=== 戦後 ===
[[画像:Mitrailleuse mg 3458.jpg|thumb|right|フランス共和国からスイスに寄贈されたミトラィユーズ。]]
[[1871年]]5月のプロシアとの休戦の後、[[アドルフ・ティエール]]指揮下の兵士によるReffyeミトラィユーズの最後の投入例の一つが記録されたが、これは[[パリ・コミューン]]の鎮圧に続き、[[ブローニュの森]]で捕らえられたコミューン支持者を砲兵部隊が処刑した際のものである。Reffyeミトラィユーズを使用した類似の事件が、パリ中央に位置するCaserne Lobauの兵舎で行われたことが報告されている。
 
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== ミトラィユーズの軍用装備としての影響 ==
[[画像:Mitrailleuse Saint-Etienne modèle 1907, Musée de l'Armée.jpg|thumb|leftright|サン=テティエンヌ Mle1907重機関銃。]]
ミトラィユーズの貧弱な性能が及ぼした長期の影響は、歴史家の間で少々の論争の対象となった。『Machine guns: An Illustrated History』では、J・ウィルバンクスが、普仏戦争でのこの兵器の効果の無さが、特にヨーロッパ大陸の各国陸軍における機関銃配備への長年の反対という結果を招いたと主張している。フランス陸軍が1897年にオチキス機関銃の装備を選択するまで、自動式の機関銃の採用に至らなかったことは真実である。この後には[[ホッチキス Mle1914重機関銃]]の配備が続いた。フランス軍はまた、もう一つ自動式の機関銃である[[:en:St. Etienne Mle 1907|サン=テティエンヌ Mle1907重機関銃]]を採用した。フランスの部局が機関銃の採用に当たって示した相対的な遅延は、ミトラィユーズの故障によって引き起こされた慎重さの結果であることを示唆している。この論には幾つかの弁明があり、マキシム機関銃は当初から繰り返してフランス兵器局により試験された<ref>John Walter, ''Allied Small Arms of World War One'', p.47 (Crowood Press, 2000)</ref>。
 
戦争の結果すぐ、フランスでは彼らの装備する伝統的な火砲に対し、より大きな改善を提案した。[[シャルル・ラゴン・ド・バンジュ]]の開発した野戦砲用部品(1877)と、最終的には[[M1897 75mm野砲]]としてよく知られる火砲を開発する強い動機づけとして、1870年から71年における作戦中のフランス軍火砲の故障が挙げられた。標準状態で1分当たり15発の砲弾を砲撃する1門の75mm砲は、6km離れて1分当たり4,350個の致死的な榴散弾の弾片を投射したが、これに対して1門のReffyeミトラィユーズは、1分当たり75発の弾丸を2kmの距離から投射した。兵装システムの効率性は、30年で2桁増強された。
 
[[画像:Hotchkiss canon revolver before 1923.jpg|thumb|right|ホチキス37mm多銃身速射砲「キャノンリボルバー」。1879年製造。]]
このような改良で火砲がより長射程化したにもかかわらず、いまだにより良い短・中距離歩兵支援火器を開発する必要が残っていた。1871年から1890年代までの期間に、種々の新規なヨーロッパ製、またはアメリカ製の手動機関銃が設計され、多くのヨーロッパ陸軍によって採用された。多量のガトリングガンがアメリカ合衆国から購入され、[[アフリカ]]、[[インド]]および[[アジア]]における[[植民地]]戦争で西ヨーロッパの大国により用いられた。普仏戦争中の1871年前半には、25門のガトリングガンがフランス軍の手で実戦投入された。これらは西フランス、[[ル・マン]]での交戦で特に巧妙に運用された。さらにフランス兵器局は、彼らの海軍と東部の防塁のために、多数の手動式機関砲を購入した。37mm多銃身速射砲、いわゆるホチキス製「カノンリボルバー」が、国外在住のアメリカ人ベンジャミン・B・ホッチキスの会社によって、1879年以後フランスで製造された。しかし1890年代までに、ヨーロッパの陸軍は[[マキシム機関銃]]や[[コルト・ブローニングM1895重機関銃]]、1897年製のホチキス機関銃などの完全自動式の機関砲に賛同し、彼らの保有するガトリングガンや手動式機関砲を退役させ始めた。このような兵器は、1914年に勃発した第一次世界大戦により一般的かつ悪名高くなった。
 
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== 現存するミトラィユーズ ==
[[画像:Mitrailleuse 002.jpg|thumb|right|[[ドイツ連邦軍軍事史博物館]]が収蔵するReffyeミトラィユーズ。[[ドイツ]]の[[ドレスデン]]市に所在。]]
オリジナルのミトラィユーズは、パリの[[オテル・デ・ザンヴァリッド]]内に所在する[[:en:Musée de l'Armée|Musée de l'Armée]]にて2門を見ることができる。雨から保護されてはいたが、これらは屋外に置かれ、一世紀以上のあいだ外気に露出したことからひどく損傷した。Musée de l'Armée所蔵のミトラィユーズは、近ごろ2門のうち1門が、現代製の四角い防楯をつけるようになったが、これは本物ではなく、普仏戦争に投入されたReffyeミトラィユーズには決して存在しなかったものである。他によりよく保存されているミトラィユーズは[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]に所在する[[:en:Royal Museum of the Armed Forces and of Military History|Royal Museum of the Armed Forces and of Military History]]で、またスイスのMorgesにある[[:en:Musee Militaire Vaudois|Musee Militaire Vaudois]]でも見ることができる。さらにドイツのフライブルク近郊ハイターシャイムにあるドライエックラント博物館では、良好な保存がなされたReffyミトラィユーズが収蔵品として展示されている。またもう一門として、非常に良好な保存状態のミトラィユーズが、ドイツのドレスデンに所在するドイツ陸軍歴史博物館にて展示されている。