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{{Redirectotheruses|ハイメ1世アラゴン王|スペイン海軍の戦艦|ハイメ1世 (戦艦)}}
{{基礎情報 君主
| 人名 = ハイメ1世 / ジャウマ1世
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| 埋葬日 =
| 埋葬地 = {{CAT987}}、[[ポブレー修道院|ポブレ修道院]]
| 配偶者1 = [[レオノール・デ・カスティーリャ・イ・プランタヘネト]]
| 配偶者2 = [[ビオランテ・デ・ウングリア]]
| 子女 = [[#家族|一覧参照]]
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| 母親 = [[マリア・デ・モンペリエ]]
}}
'''ハイメ1世'''([[スペイン語|西]]:Jaime I, [[1208年]][[2月2日]] - [[1276年]][[7月27日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography//James-I-king-of-Aragon James I king of Aragon] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は、[[アラゴン王国|アラゴン]][[アラゴン君主一覧|王]](在位:[[1213年]] - 1276年)、[[バルセロナ]][[バルセロナ伯|伯]](在位:同)、及び[[モンペリエ]]領主(在位:[[1219年]] - 1276年)。'''征服王'''(el Conquistador)と呼ばれる。[[カタルーニャ語]]名では'''ジャウマ1世'''(Jaume I)。
 
幼年で即位したため貴族の専横に苦しめられたが、成長すると[[レコンキスタ]]で優れた指導力を発揮、[[バレアレス諸島]]と[[バランシヤ王国]]([[バレンシア王国]])を征服して[[イスラム教]]の領土を[[キリスト教]]圏に変えた戦果で征服王と称えられた。内政でも功績を残し、[[アラゴン連合王国]]を[[地中海]]に領土を広げて国威を上昇させた。
 
== 生涯 ==
=== 幼年期の混乱 ===
父は[[ペドロ2世 (アラゴン王)|ペドロ2世]]、母は[[モンペリエ]]領主の相続人[[マリア・デ・モンペリエ]]で、この父母の間にただ1人生まれた子供であった。
父はアラゴン王[[ペドロ2世 (アラゴン王)|ペドロ2世]]、母はモンペリエ領主の相続人[[マリア・デ・モンペリエ]]で、この父母の間にただ1人生まれた子供であった。
 
ハイメは[[プロヴァンス]]を巡る権力争いの渦中に幼年期を過ごした。[[フランス王国|フランス]]南部の貴族たちと主従関係を結んでいたが[[キリスト教]]の[[異端]][[カタリ派]]とフランス貴族[[シモン・ド・モンフォール (第5代レスター伯)|シモン・ド・モンフォール]]との間の戦争に巻き込まれた。ペドロ2世は息子のハイメをモンフォールの娘婿として差し出すことがきっかけで、[[アルビジョア十字軍]]を懐柔しようとした<ref>田澤父の方針でp. 62</ref>。[[1211年]]にハイメはモンフォールの元で教育を受けさせるためにハイメを委ねたが、ペドロ2世は十字軍との対決を避けられなくなり、1213年[[9月12日]]娘アュレシー戦いで戦死婚約者(事実上の人質)とて差し出され<ref>{{sfn|田澤耕|2000|p. 64</ref>。アラゴ=62}}{{sfn|尾崎明夫|ビセとカタト・バイダーニャは[[教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]に訴え、モンフォールにハイメを引き渡させた<ref>田澤、2010|p. 68</ref>=11-14}}
 
モンフォールの元で教育を受けさせるためにハイメは彼に委ねられ[[カルカソンヌ]]に留め置かれたが、父は十字軍との対決を避けられなくなり、1213年[[9月12日]]のミュレの戦いで戦死した。母も既に亡くなっていたが、遺言でハイメの保護を[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]に託し、アラゴンと[[カタルーニャ君主国|カタルーニャ]]の遺臣たちもハイメの身柄引き渡しをインノケンティウス3世に訴え、聞き入れた教皇の勧告でモンフォールにハイメを引き渡させた。こうして[[1214年]]4月にハイメはフランスからアラゴンへ戻った{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=180}}{{sfn|田澤耕|2000|p=64,67-69}}{{sfn|芝修身|2007|p=144-145}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=11-16}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=531}}{{sfn|マリア・ピラール・ケラルト・デル・イエロ|青砥直子|吉田恵|2016|p=111}}。
ハイメ1世はアラゴンの[[モンソン]]に送られ、[[テンプル騎士団]]の元に預けられ<ref>田澤、p. 69</ref>、不在の間は大叔父の[[ルシヨン|ルサリョー]]伯サンチョとその息子ヌーニョが摂政となった。王国は[[1216年]]に騎士団と貴族が幼い王を[[サラゴサ]]に連れて行くまで混乱が続いた。
 
ハイメ1世はアラゴンの[[モンソン]]に送られ、次いで[[テンプル騎士団]]の元に預けられ、帝王学と軍事学・乗馬などを学び成長した。不在の間は大叔父の[[ルシヨン|ルサリョー]]伯{{仮リンク|サンシュ (プロヴァンス伯)|en|Sancho, Count of Provence|label=サンチョ}}とその息子で従叔父の{{仮リンク|ヌーニョ・サンチェス|en|Nuño Sánchez}}が摂政となったが、王国は[[1217年]]6月に騎士団と貴族が幼い王を[[サラゴサ]]に連れて行くまで混乱が続いた。同年暮れにハイメ1世は再びモンソンへ行き、そこで集まった重臣たちとルサリョー伯を政治から排除することに合意、翌[[1218年]]4月にモンソンへ戻ったが、貴族が二派に分かれて内乱が勃発、国王は他人に言われるがまま戦場へ行くしかなかった。両派に翻弄されながら攻城戦を目の当たりにする一方、[[1220年]]には味方の裏切りに遭い退却する苦い敗北も経験している{{#tag:ref|この時期はアラゴンとカタルーニャ全土に発生した貴族反乱が吹き荒れ、ハイメ1世が成長しても貴族の反抗は収まらなかった。原因は行政・財政機構の整備を通じて王権強化を図った国王と、12世紀以来の封建制度の固持を考える貴族の志向の衝突にあり、後述する法の編纂で両者は対立したり、ハイメ1世の晩年になっても貴族の反乱が勃発したりと、ハイメ1世は生涯を通じて貴族反乱に悩まされたが、軍事的成功による名声と法の適用などで王権強化を成し遂げることが出来た{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=219-220}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=533-534}}。|group=注釈}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=531}}{{sfn|マリア・ピラール・ケラルト・デル・イエロ|青砥直子|吉田恵|2016|p=111}}{{sfn|田澤耕|2000|p=69}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=16-30}}{{sfn|西川和子|2016|p=145}}。
成人したハイメ1世は、イスラム支配下の地域の征服に乗り出した。[[1229年]]から[[バレアレス諸島]](1229年[[マヨルカ島]]、[[1232年]][[メノルカ島]]、[[1235年]][[イビサ島]])、1232年から[[バレンシア王国|バレンシア]](首都占領は[[1238年]])の征服を進めた<ref>田澤、pp. 81 - 82, 89</ref>。
 
翌[[1221年]][[2月6日]]に[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]][[カスティーリャ君主一覧|王]][[アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ8世]]の娘[[レオノール・デ・カスティーリャ・イ・プランタヘネト|レオノール]]と結婚、相変わらず周囲の言うことを聞くしかない状況に振り回され、一方の派閥に擁立されてもう一方の排除に駆り出されたかと思えば、再び裏切られてサラゴサで監禁生活を送る羽目になり([[1224年]])、解放されると監禁を仕組んだ貴族たちから賠償金を請求される屈辱を味わった。この後も貴族の不服従と反抗に悩まされ、[[1225年]]8月から9月に[[バランシヤ王国]]([[バレンシア王国]])の[[ペニスコラ]]を包囲したが、ほとんどの大貴族の協力を得られず包囲を断念、翌[[1226年]]に監禁を実行した貴族の1人ペドロ・アオネースを殺害すると、彼と組んだ別の大貴族や叔父のモンテアラゴン大修道院長フェルナンドまでもがアラゴンの大部分の都市と結託して反乱を起こすなど、たびたび苦難に遭遇して反乱軍から逃げ回りながら鎮圧する日々を送った。最終的に反乱貴族と和睦して内乱を終結させたのは[[1227年]]である{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=193}}{{sfn|田澤耕|2000|p=69-71}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=30-55,60}}。
1244年、カスティーリャ王[[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|フェルナンド3世]]と{{仮リンク|アルミスラ条約|en|Treaty of Almizra}}を結ぶことで、カスティーリャ王国との国境を画定させた<ref>関 他、p. 162</ref>。
 
この間、1225年頃に王妃レオノールと別れ、[[12月7日]]に離別文書に署名、4年後の[[1229年]][[4月29日]]に教皇[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]から[[婚姻の無効]]宣言が下され離婚した。それから6年後の[[1235年]]に教皇の仲介で[[ハンガリー王国|ハンガリー]][[ハンガリー国王一覧|王]][[アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)|アンドラーシュ2世]]の娘[[ビオランテ・デ・ウングリア|ビオランテ]]と再婚した{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=40,43,88,164-165,175}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=561}}。
フランスとの関係においては、[[ピレネー山脈]]の両側にまたがる国家を樹立し、[[ロワール川]]以北の権力と拮抗させようとした。しかし危険を冒す事はなく、[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]と[[1258年]]に[[コルベイユ条約 (1258年)|コルベイユ条約]]を結び、自身の地位を認めさせ、有名無実となっているカタルーニャに対するフランスの支配権を放棄させた。
 
=== バレアレス諸島征服 ===
後年の20年間では、婿の[[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]]に代わって[[ムルシア]]のイスラム教徒と戦った<ref>田澤、p. 89</ref>。スペイン諸王の間では、立法者および調停者として高い地位を得た。[[1274年]]の[[第2リヨン公会議]]にも出席している。
成人したハイメ1世は、[[1228年]]8月に{{仮リンク|ウルジェイ伯|en|Counts of Urgell}}の領土相続問題に取り掛かった。ウルジェイ伯領の女相続人{{仮リンク|アウレンビアシュ|en|Aurembiaix}}の訴えをハイメ1世が聞き入れたことから始まったこの係争は、裁判でアウレンビアシュと叔母の夫でウルジェイ伯領を相続していたゲラウ・デ・カブレラ双方の代理人が争い、ゲラウが出頭しないためアウレンビアシュに味方し、ウルジェイ伯領の各地の町を降伏させたハイメ1世の勝利に終わった。なお、アウレンビアシュは[[1222年]]に初め親戚の{{仮リンク|アルバロ・ペレス・デ・カストロ|en|Álvaro Pérez de Castro}}と結婚していたが、1228年に血縁関係から無効とされた後1229年または[[1230年]]に[[ポルトガル王国|ポルトガル]][[ポルトガル君主一覧|王]][[サンシュ1世 (ポルトガル王)|サンシュ1世]]の息子ペドロと再婚、[[1231年]]にアウレンビアシュが死去した後はペドロがウルジェイ伯領を相続した{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=57-74}}。
 
同年12月に[[タラゴナ]]でバルセロナの富裕市民ペレ・マルテユの豪華な接待を受け、そこでマルテユと{{仮リンク|バルセロナ司教|en|Roman Catholic Archdiocese of Barcelona}}[[バランゲー・ダ・パロウ2世]]に[[地中海]]の[[マヨルカ島]]{{仮リンク|マヨルカ島の征服|en|Conquest of Majorca|label=征服}}を打診されたため、承諾して[[ムワッヒド朝]]([[イスラム教]]・[[ムスリム]])支配下の地域の征服に乗り出した。これは貿易ルートを[[ムーア人|モーロ人]]海賊に脅かされたカタルーニャ商人の要請に基づく軍事行動だったが、王としても貴族を纏め上げるための口実と軍事的名声を求めていたため利害が一致した。[[12月20日]]から[[12月23日|23日]]までバルセロナで開催された[[コルテス (身分制議会)|コルテス]]でマヨルカ島征服が可決され、貴族・聖職者・都市代表全ての支持も獲得して軍事・経済支援を確保、[[ローマ教皇庁|教皇庁]]から[[十字軍]]の資格を与えられ1229年4月に[[リェイダ]](レリダ)で十字軍を結成、[[9月5日]]にカタルーニャの港[[サロウ]]を出発、マヨルカ島を含む[[バレアレス諸島]]遠征を開始した。こうしてハイメ1世の[[レコンキスタ]]が始まった{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=193-194}}{{sfn|田澤耕|2000|p=71-78}}{{sfn|芝修身|2007|p=146,150}}{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=222}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=75-88}}。
晩年には自分の領土を2人の息子に分け与えた。[[イベリア半島]]の領土は長男のペドロ([[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペドロ3世]])に、[[マヨルカ王国]]([[バレアレス諸島]]、[[ルシヨン]]、[[サルダーニャ]])とモンペリエの領主権は次男のハイメ([[ジャウメ2世 (マヨルカ王)|ジャウメ2世]])に与えたが、これにより兄弟間の争いが避けられなくなった<ref>田澤、p. 97</ref>。アルシラで重病にかかり、王を辞して[[ポブレー修道院|ポブレ修道院]]に引退することを望んだが、1276年にバレンシアで死去した<ref>田澤、p. 96</ref>。
 
初めは戦闘に勝利しながらも、カタルーニャ貴族ギリェム・デ・モントカダとラモン兄弟が戦死する痛手を負ったが、マヨルカ島征服が活発になると首都[[パルマ・デ・マヨルカ]]に迫り、和睦交渉はあったが決裂、[[12月31日]]にパルマ・デ・マヨルカを総攻撃で落とし、ムワッヒド朝の[[ワーリー]](代官)だった[[アブー・ヤフヤー・ラシード・ティーンマッラリー|アブー・ヤフヤー]]を捕らえた。こうして3ヶ月で島の占領を果たした{{#tag:ref|パルマ・デ・マヨルカ包囲戦で危うい場面があった。それは総攻撃の時にハイメ1世の突撃命令に軍が従わず動かなかった場面で、焦ったハイメ1世は3度突撃を叫び、兵士たちが動いたことで軍がやっと進み、町へ突撃したことでハイメ1世の面目は保たれた{{sfn|田澤耕|2000|p=78-79}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=123}}。|group=注釈}}{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=222}}{{sfn|世界伝記大事典|1981|p=225}}{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=194}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=88-126}}。
 
年が明けた1230年は戦後処理に追われ、従軍した貴族層が町からの略奪品を競売にかけて、それに怒った平民層の暴動を説得で収めるも疫病で貴族を5人も失い、軍の大部分も帰国して兵力が不足する中、山岳地帯に逃れた残敵掃討に奔走した。3月に残党を降伏させた後はマヨルカ島に滞在、10月に帰国の途に就きタラゴナに上陸、タラゴナやアラゴンなどの町で市民の歓迎を受けて凱旋、ハイメ1世はこの征服で大いに名を上げた{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=194}}{{sfn|田澤耕|2000|p=80}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=127-143}}。
 
征服したといっても、マヨルカ島全体の平定はまだだったため、以後も2回マヨルカ島へ遠征のため渡航することになり、バレアレス諸島の他の島々も征服に向かった。1231年5月から7月まで再度マヨルカ島へ渡り、[[6月17日]]に[[メノルカ島]]のムスリムが降伏したのを確認してカタルーニャに帰国した。翌[[1232年]]5月から8月にかけて3度目のマヨルカ島遠征を敢行、[[チュニス]]王([[ハフス朝]]の始祖)[[アブー・ザカリーヤー1世]]がマヨルカ島遠征を企てているとの報告を受けて出動、ウルジェイ伯ペドロとヌーニョ・サンチェスを同行させた。幸いハフス軍は島に来なかったため、最初の遠征で取り組んでいた山岳地帯の残敵掃討を続行、ハイメ1世は途中で帰国したが残存部隊が任務を果たしマヨルカ島は完全平定された。1235年には{{仮リンク|タラゴナ大司教|en|Roman Catholic Archdiocese of Tarragona}}{{仮リンク|ギリェルモ・デ・モントグリー|es|Guillermo de Montgrí}}およびペドロとサンチェスが[[イビサ島]]も占領してバレアレス諸島は6年で平定された。戦後ペドロはウルジェイ伯領をハイメ1世に引き渡し、代わりにイビサ島を手に入れた{{sfn|マリア・ピラール・ケラルト・デル・イエロ|青砥直子|吉田恵|2016|p=111}}{{sfn|世界伝記大事典|1981|p=225}}{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=194}}{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=222-223}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=144-158}}。
 
一方、マヨルカ島再渡航前の1231年2月に、従伯父に当たる[[ナバラ王国|ナバラ]][[ナバラ君主一覧|王]][[サンチョ7世 (ナバラ王)|サンチョ7世]]から相互養子縁組を提案、嫡子の無いサンチョ7世の後継者と目された。ハイメ1世も家臣たちと協議し、カスティーリャとの戦争に巻き込まれる恐れがあっても養子縁組を受諾することを了承、一時はカスティーリャを迎撃するための共同派兵も提案したが、これが吝嗇だったサンチョ7世の怒りを買い、交渉は決裂した。[[1234年]]のサンチョ7世の死後は甥の[[テオバルド1世 (ナバラ王)|テオバルド1世]]がナバラの大貴族と都市代表たちに新たなナバラ王に擁立され、ナバラの相続も無くなった{{sfn|レイチェル・バード|狩野美智子|1995|p=70,99}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=172-186}}。
 
=== バレンシア占領 ===
マヨルカ島征服の合間に[[アルカニス]]でバレンシア王国{{仮リンク|バレンシアの征服|es|Conquista de Valencia por Jaime I|label=征服}}が[[聖ヨハネ騎士団]]管区長{{仮リンク|ユーグ・ド・フォルカルキエ|es|Hugo de Folcalquier}}とハイメ1世および側近の{{仮リンク|ブラスコ・デ・アラゴン|es|Blasco de Alagón}}との間で話し合われ、1232年からバレンシア王国の征服を進めた。この会談は3度目のマヨルカ島遠征が行われる前の1232年1月にあったと推定され、[[タイファ]]の1つだったバレンシア王国が内部分裂を起こし、ムワッヒド朝の総督だった{{仮リンク|ザイド・アブー・ザイド|en|Zayd Abu Zayd|label=アブー・ザイド}}、{{仮リンク|ザイヤーン・イブン・マルダニーシュ|en|Zayyan ibn Mardanish}}、{{仮リンク|イブン・フード|en|Ibn Hud}}の三者鼎立状態になっていた。このうちザイドがマルダニーシュにより首都[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]から追放され、アラゴンへ助けを求めたことから、バレンシア征服が始まった{{#tag:ref|バレンシア総督だったザイドはムワッヒド朝が衰退して混乱の時代に突入すると、外交でなりふり構わずキリスト教勢力やイスラム教勢力との間で離合集散を繰り返したが、1229年1月にマルダニーシュによりバレンシアから追放された。しかしマルダニーシュの勢力も不安定で、バレンシアから北の{{仮リンク|セゴルベ|en|Segorbe}}で抵抗を続けるザイドや南の[[シャティバ]](ハティバ)と[[デニア]]を勢力に置いたイブン・フードに挟まれていた。やがてザイドは援助のため4月にアラゴンへ臣従するとハイメ1世の庇護下に置かれ、1230年頃にはキリスト教に改宗しビセント・ベルビスと改名し王の顧問官に転身、1232年のバレンシア征服にも同行していった。征服に際しバレンシアの税を全てハイメ1世に譲渡する協約を結んだり、ハイメ1世の部下の大貴族にも城を6つ譲渡する約束を結びアラゴンに協力していた{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=160-161,166,170-171,186,340}}。|group=注釈}}{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=202}}{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=223}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=160-166}}。
 
当初ハイメ1世はマヨルカ島征服に向いていたため、バレンシア征服は貴族の軍事行動に委ねられていた。9月に[[テルエル]]と国境の歩兵軍が{{仮リンク|アーレス・デル・マエストラート|en|Ares del Maestrat|label=アーレス}}を落としたとの報告を受け取ると現場に急行したが、途中でブラスコの軍が{{仮リンク|モレーリャ (カステリョン県)|en|Morella, Castellón|label=モレーリャ}}を落としたと知るやそちらへ転進、到着してブラスコにモレーリャを譲らせアーレスも手に入れた{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=202}}{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=223}}{{sfn|田澤耕|2000|p=81-82}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=166-172}}。
 
翌[[1233年]]からは国王が指揮を執り、アラゴン・カタルーニャ軍とテンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団・[[カラトラバ騎士団]]・[[サンティアゴ騎士団]]も加えた軍を率いてバレンシア王国北部を征服、5月から7月まで[[ボリアナ/ブリアナ|ボリアナ]]を包囲・降伏させたのを手始めに、ペニスコラの降伏を受諾、ボリアナ周辺の諸城も次々と陥落させた。1234年から[[1235年]]は史料が少なく特定出来ないが、首都バレンシア周辺の町も落として回った時期は1235年夏とされ、[[1236年]]は一旦アラゴンへ戻り市民軍を抱える各自治都市を巡行したり、モンソンでコルテスを開きカタルーニャ人の参戦を促すなどバレンシア征服の準備を進め、[[1237年]]にバレンシアから北にある城{{仮リンク|エル・プッチ|en|El Puig|label=プッチ}}を落とし、ここを足掛かりにしてバレンシアを包囲する作戦に取り組んだ{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=202}}{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=223}}{{sfn|田澤耕|2000|p=82}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=186-229}}。
 
この任務を母方の叔父の{{仮リンク|ベルナット・ギレム・デ・モンペリエ|en|Bernat Guillem de Montpeller}}に託し、敵に破壊されたプッチを再建すると、ベルナットをこの城に置いて守備を任せ、自身はタラゴナやテルエルで兵糧を送り、時折マルダニーシュの襲撃が報告されるとプッチ救援に向かい、無事を確認するとボリアナに戻るという行動を繰り返した。ベルナットも王の期待に応え、8月の{{仮リンク|プッチの戦い|en|Battle of the Puig}}で襲撃したマルダニーシュ軍に勝利を飾った{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=229-248}}。
 
そうして前線と後方を行き来して過ごしているうち、[[1238年]]1月にベルナット戦死の報告を受け取ると、撤退を進める貴族たちの反対を押し切りプッチへ急行、不安に駆られ逃亡を図る騎士たちを演説で叱咤して思い止まらせ、混乱を収めると包囲作戦継続のためプッチに留まった。それから王妃と叔父フェルナンドを呼び寄せ、2人から撤退を勧められても不退転の決意を表明して拒否、王妃をボリアナに留めた(叔父は帰国)。またマルダニーシュが派遣した使者から、バレンシア北部を割譲する和睦条件を提示されても拒否、あくまでも武力行使でバレンシアを手に入れることを選んだ{{sfn|田澤耕|2000|p=82-84}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=248-258}}。
 
プッチ滞在中、{{仮リンク|アルメナラ (カステリョン県)|en|Almenara, Castellón|label=アルメナラ}}から降伏の使者が訪問、現地へ行き降伏を受諾した。すると[[ラ・ヴァイ・ドゥイショー]]、{{仮リンク|ヌレス|en|Nules}}などの町々も次々と降伏、アラゴン軍が首都バレンシアに近付いたため、4月にプッチで開いた軍議でバレンシア包囲を決断した。同月から始まった{{仮リンク|バレンシア包囲戦 (1238年)|es|Sitio de Valencia (siglo XIII)|label=バレンシア包囲戦}}はアラゴンやカタルーニャからの援軍で包囲網は強化、バレンシアのマルダニーシュ軍は戦意喪失し、包囲網を攻撃しなくなった。マルダニーシュの援軍としてチュニスからハフス朝の艦隊が襲来、ハイメ1世が包囲中に町から放たれた敵の矢が額に当たり重傷を負うなど危機的状況も見られたが、ハフス朝艦隊は攻撃せず撤退、ハイメ1世は怪我から復帰して危機は去り、町の塔を放火して落とし戦況を有利に進めた。これにより抵抗を諦めたマルダニーシュから降伏の交渉を打診され、応じたハイメ1世は提案されたバレンシア住民の退去を保障して交渉を成立させ、[[9月28日]]にバレンシアを降伏させた。このバレンシア征服とバレアレス諸島征服でハイメ1世は征服王と称えられた{{sfn|マリア・ピラール・ケラルト・デル・イエロ|青砥直子|吉田恵|2016|p=111}}{{sfn|世界伝記大事典|1981|p=225}}{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=223}}{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=202-203}}{{sfn|田澤耕|2000|p=89-90}}{{sfn|芝修身|2007|p=146}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=259-282}}。
 
=== レコンキスタの完了 ===
バレンシア占領後は土地分配で聖職者および貴族たちと揉めたり、包囲に参加出来なかった一部の貴族が[[ビリェーナ]]攻撃に失敗して退却するといった出来事があったが、バレンシア王国中部を平定したハイメ1世は大貴族たちの支持を獲得した。しかし征服は未完で、バレンシアに守備隊を残して一旦切り上げたが、[[1239年]]に再び征服活動を行うようになる。ただし、同年6月からモンペリエ訪問と政治工作で南仏へ赴いているため、バレンシア征服再開は11月になってからである{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=282-292,302}}。
 
11月にモンペリエからバレンシアに戻ると南進、[[1240年]]2月に交渉で{{仮リンク|バイレーン城|es|Castillo de Bairén}}の主と降伏を取り付け、8月に降伏を受諾した。続いて[[ビリェーナ]]も降伏、それからカタルーニャへ帰国し翌[[1241年]]3月に再びモンペリエを訪れバレンシア征服は中断したが、南仏政策が失敗すると[[1242年]]4月にバレンシアへ戻り征服活動を再開した。時期は不明だが[[シャティバ]](ハティバ)包囲も行われ、包囲中に城主の使者との交渉で城主はシャティバの代わりに{{仮リンク|カステリョン・デ・ラ・リベラ|en|Castelló de la Ribera}}を渡し、ハイメ1世に臣従する条約を交わした。承諾したハイメ1世は包囲前にシャティバで捕虜になっていた家臣たちを解放してもらい、カステリョン・デ・ラ・リベラも受け取りアラゴンへ帰国した。しかし、シャティバとは後に係争が生じることになる{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=223}}{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=203}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=302-318}}。
 
1242年[[12月30日]]に[[アルジーラ]]の降伏を承諾した後、シャティバ城主の配下のモーロ人部隊がアラゴン貴族ロドリーゴ・リサナの部下たちを襲い、戦利品を奪う事件が発生、先に取り決めた条約を破ったことを城主に詰問、条約違反として要求したシャティバの明け渡しを拒否されたため[[1244年]]1月にシャティバを包囲した。ここには[[ムルシア]]から西進したカスティーリャ王[[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|フェルナンド3世]]の王太子アルフォンソ(後の[[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]])も軍を率いて接近、両軍はシャティバで接触し、王太子の会見の求めに応じたハイメ1世はアルミスラで王太子と会見、征服地の取り分と国境線を決める会談を行った。[[1179年]]に両国は{{仮リンク|カソーラ条約|en|Treaty of Cazola}}で征服地の取り分を決めていたが、王太子もハイメ1世も条約を守らず規定外の領域に侵入したため、一時は交渉決裂する寸前までいったが、王妃ビオランテと王太子の側近の[[ビスカヤ県|ビスカヤ]]領主{{仮リンク|ディエゴ・ロペス3世・デ・アロ|en|Diego López III de Haro}}と[[サンティアゴ騎士団]]長{{仮リンク|ペラヨ・ペレス・コレア|en|Paio Peres Correia}}が取り纏めた。こうして1244年[[3月26日]]に締結した{{仮リンク|アルミスラ条約|en|Treaty of Almizra}}で、カスティーリャとの国境を画定させた。なお、5年後の[[1249年]][[12月1日]]にハイメ1世は王太子に娘[[ビオランテ・デ・アラゴン|ビオランテ]]を嫁がせている{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=158,203-204}}{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=162,223-224}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=254,319-334}}。
 
アルミスラ条約を結んだ後はシャティバ包囲に戻り、5月に城主を降伏させた。さらに9月から[[1245年]]2月にかけてビアル(現在の[[アリカンテ]])も包囲した末に降伏させ、バレンシア王国征服およびレコンキスタは完了した。しかしハイメ1世がバレンシア王国を離れた後に{{仮リンク|アル・アスラック|es|Al-Azraq}}という男が反乱を起こし、ムスリムたちも同調して反乱が拡大したため、それらの鎮圧に手間取り、バレンシア王国の完全征服は[[1258年]]までかかった{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=204}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=334-355}}。
 
=== 南仏への介入 ===
生誕地であるモンペリエからは財政援助を受け取っていたが、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の工作でモンペリエの貴族層がハイメ1世の支配を排除し、モンペリエの支配権で王と争っていたマグローヌ司教も便乗して、1238年8月にモンペリエを[[トゥールーズ伯]][[レーモン7世 (トゥールーズ伯)|レーモン7世]]に与えた。これに危機感を覚えたハイメ1世はバレンシア征服を中断して1239年6月にモンペリエへ向かい、部下である町の代官と職人層と組んで執政官など町の支配層を追放したり、トゥールーズ伯と従兄の[[プロヴァンス伯]][[レーモン・ベランジェ4世]]の訪問を迎えたり、南仏の影響力保持に尽力した。1241年3月にモンペリエを再訪問、トゥールーズ伯とプロヴァンス伯を政略結婚で結び付けようとしたがプロヴァンス伯が[[イングランド王国|イングランド]]を選び実現せず、南仏連合軍はフランス王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の前に敗れたため、南仏に見切りをつけたハイメ1世はフランスとの戦争を避けてバレンシア征服に戻った{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=292-300,308-309}}。
 
フランスとの関係においては、[[ピレネー山脈]]の両側にまたがる国家を樹立し、[[ロワール川]]以北の権力と拮抗させようとした。しかし危険を冒す事はなく、ルイ9世と1258年に[[コルベイユ条約 (1258年)|コルベイユ条約]]を結び、自身の地位を認めさせ、有名無実となっているカタルーニャに対するフランスの支配権を放棄させた{{sfn|世界伝記大事典|1981|p=225}}{{sfn|田澤耕|2000|p=77}}。
 
=== ムルシア遠征 ===
後年の20年間では、婿のカスティーリャ王アルフォンソ10世に協力してムルシアのイスラム教徒と戦ったり({{仮リンク|ムルシアの征服 (1265年-1266年)|en|Conquest of Murcia (1265–66)|label=ムルシア征服}})、そこで生じた貴族たちとの対立から発展した反乱の鎮圧に奔走したりと、多忙な日々を送った。背景には各地の法典整備を通じた王権強化に対する貴族の反発(後述)、カスティーリャに臣従していた[[グラナダ王国|グラナダ]]王[[ムハンマド1世 (ナスル朝)|ムハンマド1世]]のアルフォンソ10世に対する不信感から[[モロッコ]]・[[マリーン朝]]の[[アブー・ユースフ・ヤアクーブ]]に援軍を要請、[[ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ|ヘレス]]、[[アルコス・デ・ラ・フロンテーラ|アルコス]]、[[メディナ=シドニア]]の[[ムデハル]](キリスト教国在住のムスリム)を扇動して反乱を起こさせたことなどが挙げられる{{sfn|世界伝記大事典|1981|p=225}}{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=218-219}}{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=120-121,224}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=358-360}}{{sfn|田澤耕|2000|p=89}}{{sfn|西川和子|2016|p=147,169-170}}。
 
[[1264年]]、ハイメ1世はアルフォンソ10世に嫁いだ娘ビオランテからの手紙で反乱と援軍要請の報せを受け取り、重臣たちと話し合いの上でコルテスを開き支持と援助を取り付けることから始めた。バルセロナのコルテスでは援助に賛成してもらったが、アラゴンのコルテスでは大貴族たちが援助に反対、軍資金徴税を求める王と反対する大貴族たちの論争は平行線を辿り、[[1265年]]に反乱を起こした貴族の討伐へと向かった。とはいえ反乱貴族は財産を王に差し押さえられ、王も軍を動員した6月は収穫期であり軍事行動が無理だったため、サラゴサ司教の仲介で両者は一時休戦した{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=219}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=360-380}}。
 
アラゴン貴族との対立に一旦区切りをつけると、2人の息子ペドロ(後のアラゴン王[[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペドロ3世]])・ハイメ(後の[[マヨルカ王国|マヨルカ]]王[[ジャウメ2世 (マヨルカ王)|ジャウメ2世]])に援軍を連れて来るように命じ、自身は10月にテルエルとバレンシアへ移動しつつ食糧調達の支援を獲得、反乱を起こした町と交渉して降伏を働きかけた。この方針でビリェーナ・{{仮リンク|ペトレル|en|Petrer}}のムスリムを説得・降伏させ、11月にアリカンテで2人の息子やバルセロナ司教{{仮リンク|アルナウ・デ・グルブ|en|Arnau de Gurb}}、大貴族たちを含めた全軍に訓辞を伝えた上で、町への調略を続けながらムルシアへ進軍、12月に[[エルチェ]]の降伏も取り付けて[[オリウエラ]]に到着・滞在した。ここで敵の輜重隊に遭遇しながらも、味方の準備不足の攻撃で相手に逃げられる苦い経験があったが、{{仮リンク|アルカラス (アルバセテ県)|en|Alcaraz|label=アルカラス}}でアルフォンソ10世との会見を経て、[[1266年]]1月からムルシアを包囲した{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=219}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=381-400}}。
 
包囲中は戦闘はほとんどなく、使者をムルシアに派遣して降伏交渉を進め、約1ヶ月後の[[1月31日]]にムルシアを降伏させた。しかし戦後処理で住民とひと悶着あり、町の[[モスク]]の1つがキリスト教徒の物になることに住民の抗議が上がり、軍で威嚇して強引に承諾させた。そうして家臣たちと協議の末にムルシアをアルフォンソ10世へ引き渡し、ムルシアとバレンシア王国との国境の守備を固めた上でバレンシア・カタルーニャへと戻った。1266年と翌[[1267年]]は[[ジローナ]]とモンペリエを行き来しながら貴族間の係争を聴取、[[イルハン朝]]の[[ハーン]]・[[アバカ]]からの手紙を受け取ったりしていたが、休戦が切れた反乱貴族の討伐を再開、反乱の拠点リサナを投石機で攻撃、反乱側を戦意喪失させて降伏・処刑した。こうして反乱は鎮圧、[[タラソナ]]では偽金作りの噂を聞き、グループを捜査で摘発したりもしている。[[1268年]]は娘マリアに先立たれる訃報に接する一方で、末子の{{仮リンク|トレド大司教|en|Roman Catholic Archdiocese of Toledo}}サンチョに招待され[[トレド]]で過ごした{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=219}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=400-428}}。
 
=== 晩年 ===
幼少時から十字軍遠征の夢を抱いていたハイメ1世は実現に向けて動き、教皇庁も彼に期待してたびたび十字軍遠征を促していたが、多忙のため応じられなかった。それでも諦めず外交で聖地奪回の協力を仰ぎ、イルハン朝のアバカやアルフォンソ10世、[[東ローマ帝国]][[東ローマ帝国の皇帝一覧|皇帝]][[ミカエル8世パレオロゴス]]から支援の約束を伝えられると、家族の反対を押し切って[[1269年]][[9月4日]]にバルセロナから3隻の大型船・12隻のガレー船からなる艦隊を率いて出航した。だが、直後に大嵐に遭い艦隊はちりぢりになり、一向に天候が変わらなかったためやむを得ずフランスの港町[[エーグ=モルト]]に帰港した。カタルーニャへの帰路立ち寄ったモンペリエで町衆に援助を頼んだが、内容に満足がいかなかったためモンペリエを去り、10月にカタルーニャへ戻った{{sfn|世界伝記大事典|1981|p=225}}{{sfn|田澤耕|2000|p=95}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=429-444}}。
 
アルフォンソ10世とは婿ということもあり親しく接し、11月には彼とビオランテの息子で外孫の[[フェルナンド・デ・ラ・セルダ]]の結婚式に招待され、カスティーリャ滞在中は王と不仲の貴族を助言でなだめたり、アルフォンソ10世にも治世の助言を与え、[[1271年]]にバレンシアを訪問したアルフォンソ10世夫妻を町を挙げて歓迎するなど良好な関係を築いた。ただし対立が生じた場合もあり、[[1253年]]にアルフォンソ10世がナバラ王テオバルド1世亡き後の王位継承権を主張した時は牽制してナバラ王位を断念させ、[[大空位時代]]で[[神聖ローマ皇帝]]獲得を望むアルフォンソ10世に反対している{{#tag:ref|1264年のムルシア遠征には別の目的があり、反乱がアラゴンへ波及することを恐れた側面があった。またアルフォンソ10世の神聖ローマ皇帝獲得に反対していたが、[[1262年]]に長男ペドロを[[シチリア王国|シチリア]]王位継承権を持つ[[コンスタンサ・デ・シシリア|コンスタンサ]]と結婚させたことは皇帝要求に起因するといわれる{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=163-164,166}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=358,364}}。|group=注釈}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=444-452}}{{sfn|西川和子|2016|p=153-154}}。
 
[[1272年]]、衝撃的な事件が起こった。長男ペドロが異母弟でハイメ1世の庶子{{仮リンク|フェルナンド・サンチェス・デ・カストロ|es|Fernán Sánchez de Castro}}を[[暗殺]]しようとしたとの報告が入ったのである。ハイメ1世はペドロの説得を試み何とか兄弟間の和解を実現させようとしたが、ペドロは拒否しただけでなくフェルナンド・サンチェスの方がアラゴン貴族たちと結託して自分を殺そうとしたと主張、[[1273年]]11月にアルジーラで開かれたコルテスにも現れず、父が派遣した大貴族たちの説得にも耳を貸さなかった。ところが大貴族たちがハイメ1世の下から去った直後にペドロが和解の使者を派遣、応じたハイメ1世はシャティバでペドロと会って和解した。ペドロのこの豹変は、父が貴族の味方では無かったことを知り安心したためとされる。翌[[1274年]]にペドロと別れた後は、植民の進行を確かめる目的でムルシアを訪問、町で住民総出の歓迎を受け狩猟などをして過ごした{{#tag:ref|フェルナンド・サンチェスはハイメ1世の庶子にも関わらず、国王反対派のアラゴン貴族の領袖となり、1264年のムルシア征服にはアラゴン貴族を代表して反対、1265年に父へ反乱を起こした。翌1266年に父がムルシア征服から戻ると和解、1269年には十字軍遠征に向かった父とは別の艦隊に加わり、[[アッコ]]に到着したが成果なく帰国、途中で[[ナポリとシチリアの君主一覧|シチリア王]][[カルロ1世 (シチリア王)|カルロ1世]](シャルル・ダンジュー)と会見・協力を取り付けたことで異母兄ペドロの怒りを買った{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=358,361-362,369,376-377,414,430,464,364}}。|group=注釈}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=453-464}}。
 
[[1274年]]に教皇[[グレゴリウス10世 (ローマ教皇)|グレゴリウス10世]]から[[第2リヨン公会議]]の招待状を受け取ると、承諾して公会議に出席した。目的はキリスト教東西教会の統一と十字軍派遣にあったが、十字軍に無関心な世俗君主は招待に応じず代理を派遣しただけで、ハイメ1世だけが出席していた。公会議も十字軍に難色を示す風潮があり、ハイメ1世の熱弁も空しく十字軍は結成されなかった。公会議招待で希望した教皇からの戴冠も、アルフォンソ10世の弟でカルロ1世に捕らえられていたエンリケ王子の釈放取り次ぎも叶わずカタルーニャへ帰国、公会議で得る所が無いまま終わった{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=465-478}}。
 
帰国するとまたもや貴族との紛争が待っていた。カタルーニャ貴族たちが先祖伝来の法と慣習の守護を掲げて一致団結したのである。アラゴン貴族と同じく王権強化で特権が侵害されることを恐れたカタルーニャ貴族の反抗から勃発した王と貴族層の対立は内乱へ発展、フェルナンド・サンチェスがアラゴン・カタルーニャ両国の貴族たちを率いて反乱を起こし、遺恨のあるペドロの領地[[フィゲラス]]を襲撃・破壊したことからハイメ1世はペドロにフェルナンド・サンチェス討伐命令を出した。聖職者の仲介も[[1275年]]3月のリェイダのコルテスで開かれた裁判も王と貴族の和解に結び付かず、5月にペドロがフェルナンド・サンチェスを討ち取ったことで反乱貴族たちは降伏、一時は王が優位に立ったかに見えたが、リェイダで再度開催されたコルテスを貴族が欠席したため内乱は続いた。折しも同年、グラナダ王[[ムハンマド2世 (ナスル朝)|ムハンマド2世]]がアルフォンソ10世のカスティーリャ不在の隙を狙ってマリーン朝のヤアクーブ共々カスティーリャへ侵攻、カスティーリャが1264年と同様の状況に陥る中で防衛していたフェルナンド・デ・ラ・セルダが急死、トレド大司教サンチョも捕らえられ処刑されるなど、相次ぐ内乱や侵略で息子や孫を次々と失っていった{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=479-488}}。
 
やがてバレンシア王国にも反乱が波及、バレンシアで住民暴動が発生したのをきっかけにムデハルたちが次々と蜂起、[[ベルベル人]]騎兵部隊の援軍も加わり存亡の危機に直面した。1276年に急遽バレンシアやアルジーラ、シャティバへ移り鎮圧を指揮、かつての反乱指導者アル・アスラックを討ち取ったが、反乱は収まるどころかますます拡大、ハイメ1世も老齢のためシャティバに留まり、そこで重病にかかった。アルジーラで容態が悪化、死期を悟ったハイメ1世はペドロを呼んで遺言を残し、王位継承を告げて反乱鎮圧を託した。そして承諾したペドロがシャティバへ去ると、王位を辞して[[ポブレー修道院|ポブレ修道院]]に引退することを望んだが、バレンシアで病状が悪化したため果たせず、7月27日に68歳で死去した。遺体は死後の[[1278年]]、反乱を鎮圧したペドロ3世によりバレンシアからポブレ修道院へ移された{{sfn|田澤耕|2000|p=95-96}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=488-495}}。
 
子供達全員に財産相続させたい考えからしばしば遺言を書き換えていたが、晩年には自分の領土を2人の息子に分け与えた。[[イベリア半島]]の領土(アラゴン、カタルーニャ、バレンシア)は長男のペドロ(ペドロ3世)に、マヨルカ王国(バレアレス諸島、ルサリョー、[[サルダーニャ]])とモンペリエの領主権は次男のハイメ(ジャウメ2世)に与えたが、これにより兄弟間の争いが避けられなくなった{{sfn|世界伝記大事典|1981|p=225}}{{sfn|田澤耕|2000|p=97}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=454,493}}{{sfn|マリア・ピラール・ケラルト・デル・イエロ|青砥直子|吉田恵|2016|p=110}}。
 
== その他の業績 ==
ハイメ1世はキリスト教国の王として初めて、自伝的年代記『{{仮リンク|勲功録|en|Llibre dels fets}}』(『事実の書』とも)[[カタルーニャ語]]で著した{{sfn|田澤耕|2000|p=70}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=499-500}}。この書では王政の権力と目的の概念、封建的秩序での忠誠と裏切りの例、言語や文化に基づく民族主義的な感情の芽生え、中世における兵法が示されている。
 
『勲功録』はハイメ1世による口述筆記であり、王の言葉を複数の筆記者たちが書く方法を採り入れた。この本を書いた目的は1269年の十字軍遠征失敗にあるとされ、家臣たちから非難の声が上がる中で自己弁護に努めたのが執筆の理由といわれる。トレド大司教{{仮リンク|ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダ|en|Rodrigo Jiménez de Rada}}が著作『スペインの事績』([[1243年]])で、カスティーリャを[[西ゴート王国]]から続くスペインの正統な支配者と主張したことへの反感も理由に挙げられる。成立年代が1269年以後と推定される『勲功録』の原本は[[1651年]]、カタルーニャ反乱([[収穫人戦争]])の最中に消失したため現存せず、[[1343年]]と[[1380年]]に作られた2つの写本を元に複製された写本群が現在に伝わっている{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=537-551}}。
 
『勲功録』の内容は自己正当化の側面があり、顕彰のため自分の業績を残す反面空白も多く(特に1258年から1264年の間は記録が無い)、都合の悪い部分が書かれていないことも少なくないが、感情を込めて生き生きとした劇的な物語を通して、13世紀当時の社会を読む機会を与える本と評される。[[カタルーニャ語文学]]の先駆けとも捉えられ、ハイメ1世はカタルーニャ語を形作った[[ラモン・リュイ]]の前に位置付けられている。後世に『勲功録』写本群がアラゴン連合王国で広まるにつれよき王のイメージも人々に浸透、[[19世紀]]になると[[スペイン]]各地で出版、[[2008年]]にはハイメ1世生誕800年を記念してマヨルカ島・バレンシアやポブレ修道院で記念行事が行われた{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=499-500}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=537-551}}。
 
ハイメ1世の治世では、商人や職人が力を増し始めた。これに目を付けたハイメ1世は貴族への対抗勢力として都市民を見出し、貴族や僧侶に加えて、商人や職人も参加する身分制議会・{{仮リンク|カタルーニャ議会|en|Catalan Courts}}(コルツ・ジャナラル・デ・カタルーニャ、コルテスに相当)を設置させ、現在の[[カタルーニャ州政府|ジャナラリター・デ・カタルーニャ]]として発展する礎が出来た。また、バルセロナには市会である{{仮リンク|百人議会|en|Consell de Cent}}(クンセイ・ダ・サン、定員が100人であったためこう呼ばれた)が生まれ、自治都市化が進んだ。王と都市の関係も形成され、都市は自治権と引き換えに王へ兵士供出・資金援助で軍事・経済支援するようになっていった{{#tag:ref|ジャナラリター・デ・カタルーニャの前身としては[[1359年]]に議会の恒久的代表部として設けられたディプタシオ・ダル・ジャナラルが挙げられ、モンソンの議会でも[[1289年]]に設置された。頻繁に戦費調達を求める王の要請に対応する形で、議会の代わりに設置され、議会閉会中の臨時租税の徴収・管理に当たったこの機関は14世紀には常設にされ、15世紀には王権に対抗する機関と化していった{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=222}}{{sfn|田澤耕|2000|p=92}}。|group=注釈}}{{sfn|田澤耕|2000|p=90-93}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=535-536}}{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=221-222}}。
 
法の整備と編纂にも成果を挙げ、[[ボローニャ大学]]出身の[[ローマ法]]学者を登用、慣習や[[フエロ]](都市法、地域法とも)を根拠に特権を主張する貴族への対抗として法の統一が図られ、アラゴンやバルセロナなど都市のフエロの編纂事業が進められた。[[1247年]]に法学者ビダル・デ・カネリャスに命じて編纂させた『アラゴン法典』のアラゴンでの施行をコルテスで決定、[[1251年]]にはバルセロナのコルテスで『慣習法典』をカタルーニャで施行することを宣言、[[1261年]]にバレンシアのコルテスでも『バレンシア法典』の適応を宣言した。これらの法典内容が王権に有利なことに反発した貴族の反発は強く、1264年にハイメ1世のムルシア遠征従軍命令を拒否するほどだったが、法の適用に基づく裁判権拡大と王権強化は果たされた。行政整備も行われ、国王不在時の総督・副王設置が進められ、身分制議会と並んで国王諮問会議も中央政府へと発展、そうした経過で財政・裁判を担当する役職・機関も形成されていった{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=533-534}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=358-359}}{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=220-221}}。
 
ハイメ1世の征服活動は海上貿易の発展を促し、カタルーニャを中心にした貿易ルートは東地中海([[コンスタンティノープル]]、[[アレクサンドリア]]など)と西地中海(南フランス、[[イタリア]]、[[マグリブ]]など)の2つのルートが主で、バルセロナで商人組合が成立、アラゴンも[[エブロ川]]の内陸ルートを介してカタルーニャの貿易に組み込まれ、主要港湾都市に商業裁判所・海事裁判所と商務館が設置された。また海事にも安全と取引の円滑化を目的とした法の整備が進められ、[[1260年]]から[[1270年]]にかけて、海事関係の判例が編纂された『海事慣習法』が地中海都市で用いられた。ハイメ1世もそうした貿易発展に便宜を図り、免税特権付与や銀貨鋳造で貨幣制度を整え、14世紀まで続く経済発展を後押しした{{sfn|マリア・ピラール・ケラルト・デル・イエロ|青砥直子|吉田恵|2016|p=111}}{{sfn|田澤耕|2000|p=93-94}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=536-537}}{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=228-231}}。
 
バルセロナが発展したのもハイメ1世の治世で、貿易で富の増大と共に市も拡張、バルセロナを囲む壁(第一囲壁、ローマ囲壁とも)から外れた南東の港湾地区が海のサンタマリア教会を中心に賑わいを見せると、ハイメ1世は市域を10倍の130ヘクタールも拡張、海のサンタマリア地区を囲んだ第二囲壁を1260年から着工した。バルセロナは以後も拡張を続け、第二囲壁の外側にも地区が形成され手工業者と毛織物業者が住み、王権の認可の下ギルドが作られていった。百人議会設置で自治権強化されたこともあり、バルセロナはハイメ1世以後の王が地中海進出を継続すると共に自治都市として躍進していった{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=226-227}}{{sfn|岡部明子|2010|p=9-13}}。
 
== 人物 ==
熱心なキリスト教徒に育てられ、反イスラム教思想を叩き込まれたが、偏狭ではなく宗教に寛容で、それはレコンキスタでムスリムの町へ降伏を呼びかける姿勢に現れている。バレンシア征服ではムスリムに生命・財産・法・慣習・宗教を保証する降伏協定を勧めていたため、ムスリムの大部分がムデハルとして少数のキリスト教徒の支配下に留まり、ムスリム追放は農業を主とする経済に支障をきたすため抑えられ、カタルーニャからのキリスト教徒入植者とムデハルの共存に配慮したため、カスティーリャと違い経済衰退は起こらなかった。また計算高いしたたかな一面もあり、マヨルカ島征服は商人や聖職者との利害一致で始めた事業であり、彼等からの支援を確認した上で征服を敢行、宗教的動機だけで乗り出した訳ではなかった{{sfn|田澤耕|2000|p=71-78}}{{sfn|芝修身|2007|p=146,150}}{{sfn|世界伝記大事典|1981|p=225}}{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=222-223}}{{sfn|D.W.ローマックス|林邦夫|p=202-203}}{{sfn|芝修身|2007|p=148-149,228-229}}{{sfn|関哲行|立石博高|中塚次郎|2008|p=224}}。
 
母からは信仰心と教皇への服従を受け継いだが女癖が悪く、しばしばその点で教皇から叱責されている。父譲りの金髪かつ長身の女好きで、一向に叱責されても止めなかった。2番目の妻ビオランテ亡き後、3番目の妻に平民の女性テレサを迎えたが、カスティーリャ王女ベレンゲラ・アルフォンソ(フェルナンド3世の弟モリナ公アルフォンソの娘)と深い仲になり、彼女との再婚を考えてテレサとの婚姻無効を教皇庁へ申請したが、教皇[[クレメンス4世 (ローマ教皇)|クレメンス4世]]からは却下されたばかりかベレンゲラと別れることを要求された。これを無視してベレンゲラと別れず不倫を続けたが、この件が災いして事あるごとにベレンゲラとの別れを要求されるようになり、ムルシア遠征で従軍していた[[ドミニコ会]]士に罪の赦しを願うとベレンゲラの離別を切り出されたため赦しを受けられなかった。1269年の遠征に際しても教皇から手紙でベレンゲラとの関係を叱責されている{{sfn|田澤耕|2000|p=76-77,94-95}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=394-395,438}}。
 
良くも悪くも中世人が持つ感情の起伏の激しさが強く表れ、戦場では少々の傷で離脱しようとする者を首根っこ掴んで引き戻したという。バレンシア征服中の1238年に2番目の妻ビオランテを呼んだ時、バレンシアを落とすまでエブロ川を渡ることは無い(北へ撤退する意志は無い)とプッチで誓いを立て、ビオランテがエブロ川対岸に到着しても誓いを頑固に守り、周囲を苛立たせた。バレンシアのマルダニーシュから届いた和睦条件を蹴ったのも目標達成にこだわった頑固さの現れで、1269年に家族の反対を押し切って十字軍遠征を敢行したり、1274年の第2リヨン公会議へ世俗君主でただ1人出席したことも、他の諸侯が十字軍に無関心な中で名誉を重視した姿勢が表れている。一方でバレンシア征服中に軍を出発させようとした時、軍のテントに燕が巣をかけていた所を発見、燕の雛が巣立つまで出発を延期するといった優しさが垣間見えるエピソードも残っていて、年代記作家からは容姿端麗、敬虔、頑固者、勇猛果敢、優しく情に脆い性格を称賛されている{{sfn|田澤耕|2000|p=83-90,95}}{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=254-255,257-258,434-435,466}}。
ハイメ1世の治世では、商人や職人が力を増し始めた<ref>田澤、p. 90</ref>。ハイメ1世は貴族や僧侶に加えて商人や職人も参加する身分制議会コルツ・ジャナラル・デ・カタルーニャ(corts general de Catalunya)を設置させた<ref>田澤、p. 91</ref>。また、バルセロナには市会である百人議会([[:en:Consell de Cent|クンセイ・ダ・サン]]、定員が100人であったためこう呼ばれた)が生まれ、自治都市化が進んだ<ref>田澤、pp. 92 - 93</ref>。
 
== 家族 ==
[[1221年]]にカスティーリャ王[[アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ8世]]の娘[[レオノール・デ・カスティーリャ・イ・プランタヘネト|レオノール]](エリオノール、1202年 - 1244年)と結婚し1男をもうけたが、[[1226年|1226]]/[[1230年|301229年]]に離婚した<ref name=O561>{{sfn|尾崎 他、明夫|ビセント・バイダル|2010|p. =561</ref>}}
* アルフォンソ(1222年 - 1260年) - ベアルン伯ガストン7世の娘コンスタンスと結婚。父に先立ち死去。
 
1235年に[[ハンガリー一覧|ハンガリー]][[ハンガリー国王一覧|王]][[アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)|アンドラーシュ2世]]の娘[[ビオランテ・デ・ウングリア|ビオランテ]](ヨランダ、ヨラーン、1216年頃 - 1253年)と結婚した。ビオランテとの間の子女は次の通り<ref name{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=O561 />561}}
* [[ビオランテ・デ・アラゴン|ビオランテ]](1236年 - 1301年) - カスティーリャ王[[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]]と結婚
* コンスタンサ(1239年 - 1269年) - アルフォンソ10世の弟フアン・マヌエル王子と結婚
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* サンチョ(1250年 - 1275年) - トレド大司教
 
ビオランテの死後、[[1255年]]にテレサ・ヒル・デ・ビダウレと3度目の結婚をしたが<ref name{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=O561 />561}}、私的なもので、彼女が[[ハンセン病]]を患うと捨てた。
* ハイメ・デ・ヘリカ(1255年 - 1288年)
* ペドロ・デ・アイェルベ(1259年 - 1318年)
 
他に何人もの愛人を持ち、庶子が数人生まれた<ref name{{sfn|尾崎明夫|ビセント・バイダル|2010|p=O561 />561}}
* {{仮リンク|フェルナンド・サンチェス・デ・カストロ|es|Fernán Sánchez de Castro}}(1241年 - 1275年) - 母ブランカ・デ・アンティリョン(1210年頃 - ?)
* ペドロ・フェルナンデス・デ・イハル(1247年頃 - 1297年) - 母ベレンゲラ・フェルナンデス(1234年 - 1279年)
* ハイメ・サッロカ(1248年 - 1290年) - 母エルビラ・サッロカ、ウエスカ司教。
 
== 注釈 ==
{{Reflist|group="注釈"}}
 
== 脚注 ==
{{Reflist|2脚注ヘルプ}}
{{Reflist|3}}
 
== 参考文献 ==
* ''The Book of Deeds of James I of Aragon: A Translation of the Medieval Catalan "Llibre Dels Feits"'' ("Crusade Texts in Translation" Series) translated and edited by Damian J. Smith and Helena Buffery, 2003 ISBN 0754603598
* 『世界伝記大事典〈世界編 7〉トムーハリ』[[ほるぷ出版]]、1981年。
* 田澤耕『物語カタルーニャの歴史』中公新書、2000年 ISBN 4-12-101564-9
* [[レイチェル・バード]]著、[[狩野美智子]]訳『ナバラ王国の歴史 <small>山の民バスク民族の国</small>』[[彩流社]]、1995年。
* 尾崎明夫、ビセント・バイダル 訳・解説 『征服王ジャウメ1世勲功録 レコンキスタ軍記を読む』 京都大学学術出版会、2010年
* D.W.ローマックス著、[[林邦夫]]訳『レコンキスタ <small>中世スペインの国土回復運動</small>』[[刀水書房]]、1996年。
* 関哲行 他 『世界歴史大系 スペイン史 1』 山川出版社、2008年
* [[田澤耕]]『物語カタルーニャの歴史』[[中央公論新社]]([[中公新書]])、2000年。ISBN 4-12-101564-9
* [[芝修身]]『真説レコンキスタ <small><イスラームVSキリスト教>史観をこえて</small>』[[書肆心水]]、2007年。
* [[関哲行]]・[[立石博高]]・[[中塚次郎]]『世界歴史大系 スペイン史 1 <small>-古代~中世-</small>』[[山川出版社]]、2008年。
* [[尾崎明夫]]、[[ビセント・バイダル]]訳・解説『征服王ジャウメ1世勲功録 レコンキスタ軍記を読む』[[京都大学学術出版会]]、2010年。
* [[岡部明子]]『バルセロナ』中央公論新社(中公新書)、2010年。
* マリア・ピラール・ケラルト・デル・イエロ著、青砥直子・吉田恵訳『<small>ヴィジュアル版</small> スペイン王家の歴史』[[原書房]]、2016年。
* [[西川和子]]『スペイン レコンキスタ時代の王たち <small>中世800年の国盗り物語</small>』彩流社、2016年。
 
== 関連項目 ==
* [[ヴィラ=レアル]]
* [[カステリョン・デ・ラ・プラナ]]
* [[フィゲラス]]
* [[ガンディア]]
* [[パルマ大聖堂 (スペイン)]]
* [[バレンシア大学]]
* [[王立造船所 (バルセロナ)]]
 
== 外部リンク ==
113 ⟶ 213行目:
[[Category:スペインの幼君]]
[[Category:モンペリエ出身の人物]]
[[Category:レコンキスタの人物]]
[[Category:13世紀の君主]]
[[Category:13世紀スペインの人物]]
[[Category:1208年生]]
[[Category:1276年没]]