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{{Infobox 作家
| name = 小田 観螢<br />(おだ かんけい)
| image = Kankei Oda 1946.jpg
| image_size = <!--画像サイズ-->
| caption = 『孤舟寿言集』(1946年発行)
| pseudonym = <!--ペンネーム-->
| birth_date = {{生年月日と年齢|1886|11|7|no}}
| birth_place = [[岩手県]][[九戸郡]][[宇部村]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1886|11|7|1973|1|1}}
| death_place =
| resting_place = <!--墓地、埋葬地-->
| occupation = [[歌人]]、[[教員]]
| nationality = {{JPN}}
| education = <!--受けた教育、習得した博士号など-->
| alma_mater = <!--出身校、最終学歴-->
| period = <!--作家としての活動期間、デビュー作出版から最終出版まで-->
| genre = [[短歌]]
| subject = <!--全執筆対象、主題(ノンフィクション作家の場合)-->
| movement = <!--作家に関連した、もしくは関わった文学運動-->
| debut_works = <!--デビュー作-->
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| spouse = <!--配偶者-->
| partner = <!--結婚していない仕事のパートナー(親族など)-->
| children = <!--子供の人数を記入。子供の中に著名な人物がいればその名前を記入する-->
| relations = <!--親族。その中に著名な人物がいれば記入する-->
| production = <!--所属-->
| influences = [[太田水穂]]
| influenced = [[中城ふみ子]]、[[菱川善夫]]
| awards = 北海道文化賞(1946年)<ref name="短歌研究19771101_p38">{{Harvnb|宮崎|1977|pp=38-39}}</ref><br />北海道新聞文化賞(1956年){{R|短歌研究19771101_p38}}<br />小樽市功労者賞(1970年){{R|短歌研究19771101_p38}}
| years_active = <!--活動期間-->
}}
{{表記揺れ案内
|表記1=小田観螢{{R|短歌研究19771101_p38}}<ref name="広報くじ20200901_p2">{{Harvnb|弥藤|2020|pp=2-3}}</ref>
|表記2=小田観蛍<ref name="小樽ジャーナル20181206">{{Cite news|title=歌人小田観蛍 生涯と功績を紹介|newspaper=[[小樽ジャーナル]]|date=2018-12-6|url=https://www.otaru-journal.com/2018/12/2018-1206-1/ |accessdate=2021-11-7|publisher=小樽ジャーナル社|language=ja}}</ref><ref name="野田村2021">{{Cite web|url=https://www.noda-kanko.com/kankou/rekishi/odakankei-kahi.html |title=小田観蛍 歌碑|accessdate=2021-11-7|date=2021|publisher=[[野田村]]観光協会}}</ref>
|表記3=小田觀熒<ref name="短歌研究20180501_p92">{{Harvnb|田中|2018|pp=92-93}}</ref>
}}
'''小田 観螢'''(おだ かんけい、[[1886年]]〈[[明治]]19年〉[[11月7日]] - [[1973年]]〈[[昭和]]48年〉[[1月1日]]{{R|短歌研究19771101_p38}})は、[[日本]]の[[歌人]]。本名は小田哲弥{{R|広報くじ20200901_p2}}。[[北海道]]歌壇の草分け、北海道歌壇の功労者とされる<ref name="朝日新聞20110513e_p5">{{Cite news|和書|title=北の文人立ち話 逆境・苦難でも詠み続け 歌一筋、小田観螢|newspaper=[[朝日新聞]]|edition=北海道夕刊|date=2011-5-13|author=[[高山美香 (イラストレーター)|高山美香]]|publisher=[[朝日新聞社]]|page=5|language=ja}}</ref>。二度にわたって妻を喪いがらも歌を詠み続けたことから、「逆境の歌人」とも呼ばれる{{R|朝日新聞20110513e_p5}}<ref name="鴎外のやかん_p19">{{Harvnb|高山|2013|p=19}}</ref>。
 
== 経歴 ==
[[岩手県]][[九戸郡]][[宇部村]](後の[[久慈市]])で誕生した。伯父の教育の賜物で、13歳のとき中国の歴史書『一八史略』を読み、周囲を驚かせた{{R|広報くじ20200901_p2}}。
 
1900年(明治33年)、家が破産したために学業を断念、母方の叔母を頼って一家で北海道小樽にわたり、観螢は奥沢小学校の代用教員として勤めた。その後も北海道各地に転任し、開拓民の子供たちに教えつつ、自らも農業に携わる、半農半教の生活を送った{{R|広報くじ20200901_p2}}。
 
=== 歌人の道へ ===
一方では文学の関心も高まっており{{R|広報くじ20200901_p2}}、小樽最古の和歌の結社「小樽興風会」に入会したことをきっかけに、歌人となった{{R|小樽ジャーナル20181206}}。北海道の文芸誌に加え、[[若山牧水]]の『創作』、[[太田水穂]]の『[[潮音]]』にも出詠し、歌人として次第に認められ始めた{{R|広報くじ20200901_p2}}。
 
1911年(明治44年)8月、教員仲間と[[十勝岳]]に登山中に遭難し、10日目に奇跡的に救助された{{R|朝日新聞20110513e_p5}}。この遭難で、歌人としてさらに脚光を浴びることなった{{R|朝日新聞20110513e_p5}}。観螢はこの遭難の最中ですら、「火を焚けど背(そ)びら冷たく霧ふりてまどろむ間なく夜はあけにけり」「氷雨ふるこごし岩根に深山鳥(みやまどり)巣ごもり鳴けば涙しくだる」と短歌を詠んでいた{{R|朝日新聞20110513e_p5|短歌研究20180501_p92}}。夜もクマの襲撃を避けて木の上で夜を明かしつつ、歌を詠んだ{{R|鴎外のやかん_p19}}。この遭難にまつわる連作は、後に第1歌集『隠り沼』に収録された{{R|小樽ジャーナル20181206}}。
 
1916年(大正5年)、[[富良野市|富良野]]の鳥沼小学校の訓導兼校長となった。この頃には妻との間に3人の娘をもうけていたが{{R|広報くじ20200901_p2}}、翌1917年(大正6年)に、妻が急性肺炎により急逝した。観螢は学校の傍らで、遺された3人の幼い娘を育てたが、その苦境の最中にも短歌への情熱を失うことはなく<ref name="広報くじ20200901_p4">{{Harvnb|弥藤|2020|pp=4-5}}</ref>、慟哭ともいえる連作を作った<ref>{{Cite news|和書|title=新・北のうた暦 2018.1.23 天ざかる鄙(ひな)にすまへど都ぶりよろしき妻を橇乗せ走る 小田観螢|newspaper=[[北海道新聞]]|edition=全道朝刊|date=2018-1-23|author=田中綾|publisher=[[北海道新聞社]]|page=28|language=ja}}</ref>。1919年(大正8年)、山梨の歌人である米倉久子と再婚。歌集『陰り沼』を発行し、全国的な評判と共に、多くの人々の涙を誘った{{R|広報くじ20200901_p4}}。
 
1923年(大正14年)、当時の名門である小樽中学([[北海道小樽潮陵高等学校]])に大抜擢されて、小樽へわたった。同年に両親と死別。また山梨出身の久子は北海道の環境が厳しかったため、静養のために単身で山梨に戻り、観螢は子供たちを抱えつつ、妻と別居生活を送ることとなった{{R|広報くじ20200901_p4}}。1930年(昭和5年)、短歌誌『新墾(にいはり)』を創刊し、後進の育成にも力を入れた<ref name="北海道新聞19950714m_p27">{{Cite news|和書|title=いしぶみ 小田観螢歌碑 銀河仰いだ孤独な魂|newspaper=北海道新聞|edition=樽B朝刊|date=1995-7-14|page=27|language=ja}}</ref>。
 
1938年(昭和13年)2月、久子の重病の報せが届いた。観螢は子を連れて山梨を駆けつけたものの、それも空しく久子は死去した。観螢は前妻と後妻、それぞれの間の計5人の子供を、男手一つで育てた<ref>{{Cite web|url=http://furusato.fmii.co.jp/kuji/2013/11/13/逆境の歌人%E3%80%80小田観蛍/ |title=逆境の歌人 小田観蛍|accessdate=2021-11-7|author=畠山泉|date=2013-11-13|website=[[エフエム岩手]]}}</ref>。これが「逆境の歌人」と呼ばれる所以である{{R|朝日新聞20110513e_p5|鴎外のやかん_p19}}。
 
後に『新墾』の同人を3度目の妻として迎え、生活も安定し<ref name="広報くじ20200901_p6">{{Harvnb|弥藤|2020|pp=6-7}}</ref>、多くの歌集を出版した{{R|朝日新聞20110513e_p5}}。
 
=== 戦中・戦後 ===
1944年(昭和19年)、物資不足から『新墾』が休刊。終戦翌年の1946年(昭和21年)1月、観螢の家族たち総出の協力のもと、『新墾』が復刊した{{R|広報くじ20200901_p6}}。しかしGHQの事前検閲は厳しく、小樽市の発行所に「横書きの白い大形の角封筒が投げ込まれるたびに、観蛍は心が冷える思いであった<ref>{{Cite news|和書|title=道内文学 短歌 小田観蛍歌集をGHQが没収 なぞ多い昭和の解明を|newspaper=北海道新聞|edition=全道夕刊|date=1999-1-19|author=田中綾|page=8|language=ja}}</ref>。
 
戦後の『新墾』からは、多くの歌人や評論家が育ち、歌論にとらわれない若い歌人たちが登場した。特に[[中城ふみ子]]は、観螢が助力した歌人であった{{R|広報くじ20200901_p6}}。中城ふみ子が日本短歌社による五十首応募で特選となり、病床の中で歌集『乳房喪失』刊行を急ぐ中、観螢はその校正を手掛けて、刊行を裏で支えた{{R|広報くじ20200901_p6}}<ref name="短歌研究20180501_p94">{{Harvnb|田中|2018|p=94}}</ref>。
 
その後も小樽高等商業学校([[小樽商科大学]])、[[北照高等学校]]、[[札幌短期大学]]など、教員生活は50年にわたり、その傍らも短歌を詠み続けた{{R|小樽ジャーナル20181206}}。短歌に加えて学校の校歌も作詞しており、その数は小樽市内14校に加えて、北海道内外含めて30数校にのぼった{{R|小樽ジャーナル20181206}}。
 
=== 晩年 ===
1972年(昭和47年)の大晦日、家族を集め、伝家の刀や家の由来を話し、上機嫌であった{{R|広報くじ20200901_p6}}。しかしその翌日の1983年(昭和48年)元旦、心不全により{{R|短歌研究19771101_p38}}、86歳で死去した{{R|北海道新聞19950714m_p27|広報くじ20200901_p6}}。同年1月に米寿の祝賀会が計画されていた矢先の急逝であった{{R|短歌研究19771101_p38}}。告別式は小樽市内の[[龍徳寺 (小樽市)|龍徳寺]]で行われ、急な訃報に集った参列者は千人に達した{{R|短歌研究19771101_p38}}。
 
小樽市緑に遺されている歌碑は、1963年(昭和38年)に、観螢の喜寿を祝って建立されたもので{{R|北海道新聞19950714m_p27}}、1億8千万年前のジュラ紀の巨岩が使用されている{{R|朝日新聞20110513e_p5}}。他に富良野市の[[鳥沼公園]]{{R|広報くじ20200901_p6}}<ref>{{Cite journal|和書|author=山中勝|date=2015-11-30|title=名水を訪ねて(111)道北の名水|journal=地下水学会誌|volume=57|issue=4|page=538|publisher=日本地下水学会|naid=130005122656|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jagh/57/4/57_533/_article/-char/ja/ |accessdate=2021-11-7}}</ref>、生誕地の久慈市内各地にも歌碑が建てられている{{R|小樽ジャーナル20181206|野田村2021}}。
 
== 人物 ==
飲酒や喫煙の習慣もない、高潔な人格者であった{{R|短歌研究19771101_p38}}。性格は至って明朗快活、人と接するときには時に洒落や冗談を交え、好感を抱かせた{{R|短歌研究19771101_p38}}。学校でも、多くの生徒たちからの敬愛を集めた{{R|短歌研究19771101_p38}}。
 
歌人で文芸評論家の[[菱川善夫]]は、父親が小田観螢の同僚の教員であった{{R|短歌研究20180501_p92}}<ref name="自伝的スケッチ_p54">{{Harvnb|菱川|2012|pp=54-55}}</ref>。菱川によれば、小田も菱川の父も、共に語りの名手であり、特に小田は無声映画の活弁を彷彿させるような美しい語り口で、文学好きの青年たちを喜ばせた{{R|短歌研究20180501_p92|自伝的スケッチ_p54}}。また菱川自身の評論の展開も美文と評価されているが、これは小田からの影響が大きいと見られている{{R|短歌研究20180501_p92}}。
 
== 評価 ==
明治期の観螢は[[万葉集]]に傾倒しており、当時の短歌は万葉集の影響を受けていたが、大正期にはそれが大きく変貌して、[[新古今和歌集]]や[[松尾芭蕉]]の俳諧の技法が多く取り入れられており、その後も反写実的な歌、さらに前衛歌人からの影響の濃い歌へと変貌している<ref name="短歌現代200509_p126">{{Harvnb|山名他|2005|pp=126-127}}</ref>。このことから、歌人の[[山名康郎]]は観螢を無所住心(心が一箇所に住み着かない、無限な魂の意味)の歌人としている{{R|短歌現代200509_p126}}。
 
太田水穂は、観螢は『潮音』などに出詠していたことで地方に埋没してしまった感があり、中央歌壇からは多い存在であったが、「『潮音』から離れて中央歌壇に場を求めれば、名を輝かせる歌人になっただろう」と、口惜しんでいる{{R|短歌現代200509_p126}}。
 
小田観螢の短歌は、喪った妻を想う歌も多い一方で、その悲哀から再起するかの如く、濁りのない自然な短歌も多い。太田水穂は小田の歌集『陰り沼』の序文で、「君の心に触るる物は直ちに君自身の物であるといふ境地──言葉を換へて云へば一切の物に『我れ』を見ると云ふやうな境涯<ref group="*" >{{Harvnb|田中|2018|pp=92-93}}より引用。</ref>」と評価している{{R|短歌研究20180501_p92}}。こうした苦境の中での短歌に対する情熱や意欲を称える声もある{{R|短歌現代200509_p126}}。
 
自ら短歌を詠むのならず、歌壇の選者として短歌の普及に大きく尽くしたことで、北海道歌壇の功労者とも評価されている<ref>{{Cite journal|和書|author=宮崎芳男|date=1979-1-1|title=郷土史の中の歌人達 北海道 小田観螢|journal=短歌研究|volume=36|issue=1|page=118|publisher=短歌研究社|id={{全国書誌番号|00014609}}}}</ref>。『潮音』活動の基盤を作った歌人{{R|短歌現代200509_p126}}、北海道歌壇の祖との声もある<ref name="短歌現代20050901_p128">{{Harvnb|山名他|2005|pp=128-129}}</ref>。
 
== 代表歌 ==
* 距離感の 近き銀河を あふぎ居り 身は北ぐにに 住みふさふらし
* 十勝岳 火は生くかぎり 絶えせねば けはしき道も われは行くべし
* 門遠く 山脈(やまなみ)の空 秋晴れて 我が打つ板木 こだまをかへす
* ふるさとは 路傍のうなゐ 荷車を 輓ける牛さへ 見過ぐしがたし
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="*"|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[高山美香 (イラストレーター)|高山美香]]|title=鴎外のやかん|date=2013-12-20|publisher=猫の事務所|ncid=BB20535384|ref={{SfnRef|高山|2013}}}}
* {{Cite journal|和書|author=田中綾|date=2018-5-1|title=小田観螢 北海道歌壇の開拓者|journal=短歌研究|volume=75|issue=5|publisher=短歌研究社|id={{全国書誌番号|00014609}}|ref={{SfnRef|田中|2018}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[菱川善夫]]|title=自伝的スケッチ 運動体への導火線|date=2012-2-28|publisher=[[沖積舎]]|series=菱川善夫著作集|isbn=978-4-8060-6625-5|ref={{SfnRef|菱川|2012}}}}
* {{Cite journal|和書|author=宮崎芳男|date=1977-11-1|title=先師達の肖像画集 小田観螢|journal=短歌研究|volume=34|issue=11|ref={{SfnRef|宮崎|1977}}}}
* {{Cite journal|和書|author=弥藤邦義|date=2020-9-1|title=郷土の歌人 観螢先生は今も心に── &#x301C;短歌雑誌「新墾」創刊90周年特集&#x301C;|journal=広報くじ|issue=348|publisher=[[久慈市]]|id={{全国書誌番号|01040953}}|url=https://www.city.kuji.iwate.jp/assets/seisaku/2020.09.01A3.pdf |format=PDF |accessdate=2021-11-7|ref={{SfnRef|弥藤|2020}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[山名康郎]]他|date=2005-9-1|title=小議会 特集・小田観螢の歌|journal=短歌現代|volume=29|issue=10|publisher=短歌新聞社|id={{NCID|AN10134011}}|ref={{SfnRef|山名他|2005}}}}
 
{{Normdaten|TYP=p
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{{DEFAULTSORT:おた かんけい}}
[[:Category:20世紀の歌人]]
[[:Category:日本の高等教育の教員]]
[[:Category:小樽商科大学の教員]]
[[:Category:岩手県出身の人物]]
[[:Category:1886年生]]
[[:Category:1973年没]]