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== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
[[文保]]2年([[1318年]])[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]{{efn|『系図纂要』では「文保二年三ノ二生」とある。}}<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP">[http://www5.plala.or.jp/akiie/akiie/turedure/nenpyo/nen-01.htm 愛しの顕家様のぺえじHP内北畠顕家関連年表]、2014年7月2日閲覧</ref>、[[北畠親房]]の長男として生まれた。父の親房は[[後の三房|後の「三房」]]の1人として[[後宇多天皇]]や[[後醍醐天皇]]に近侍した人物である。
 
[[元応]]3年([[1321年]])1月、顕家は3歳で[[叙爵]]されたのち、さまざまな官職を歴任し、[[元弘]]2年/[[正慶]]元年([[1332年]])12歳までに[[従三位]][[参議]]・[[左近衛中将]]となった<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。14歳で[[参議]]はほかに先例がなく、[[中原師守]]の日記『[[師守記]]』では「幼年人、参議に任ずる例」として、[[康元]]2年([[1257年]])11月に15歳で参議となった[[四条隆顕]]ともに記されている。
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元弘元年(1331年)3月、後醍醐天皇が[[西園寺公宗]]の北山第に行幸した際、顕家もこれに供し、「[[陵王]]」を舞った<ref name="愛しの顕家様のぺえじHP" />。『増鏡』では、このとき帝も笛を吹き、顕家が舞い終えたのち、前関白である[[二条道平]]が自身の紅梅の上着、二藍の衣を褒美として与えたという{{efn|『増鏡』では、「其の程、上も御引直衣にて、倚子に著かせ給ひて、御笛吹かせ給ふ。常より異に雲井をひびかす様也。宰相の中将顕家、陵王の入綾をいみじう尽くしてまかづるを、召し返して、前の関白殿御衣取りてかづけ給ふ。紅梅の表着・二藍の衣なり」とこのときの様子が記されている。}}。
 
このように、顕家は史上最年少で参議に任じられるなど先例のない昇進を示し、父親房同様に順調に出世をしていった{{efn|「元徳二年(1330年)13歳で左中弁となる新例をひらき、翌年参議で左近衛中将を兼ね、空前の昇進を示した」<ref>河出書房新社『日本歴史大辞典』</ref>}}。これは[[北畠の才覚]]幼少期から人即位前の邦仁王の頃より代に認められて[[大覚寺統]]と深関係にあったからこそであろうと考えられる<ref>本郷和人「天皇の思想: 闘う貴族北畠親房の思惑」2010年 山川出版社</ref>
 
=== 陸奥への下向と統治 ===