「高峰秀子」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m 外部リンクの修正 {{NHK人物録}} (Botによる編集) |
見出しの整理、国会発言に関する出典補足(議事録) |
||
111行目:
「子役出身に大女優・名優なし」とのジンクス(このジンクスは、日本のみならず、[[シャーリー・テンプル]]ほか外国でも同じ類例は多い)を破り、5歳から子役(現存するフィルムでは初出演の『母』<ref group="注釈">長らく散逸したとされていたが、発見され、2014年にDVD化される。</ref>や『七つの海』<ref group="注釈">松竹VHS</ref>で、その子役像を観ることができる)となり、その後、娘役へと成長、さらに「女」を演じる大女優へと伸びていった。役柄も非常に幅広く、娘時代には可憐な役柄が多かったが(『婦系図』『その前夜』ほか)、戦後は、時代の先端を生きる職業婦人(『朝の波紋』)、国民的人気を博した女教師(『二十四の瞳』)、男との破滅的恋愛関係に溺れる女(『浮雲』)、意に沿わぬ相手との結婚生活をする妻(『永遠の人』)、聾唖者として社会の底辺に居ながらも強く生きる女性(『名もなく貧しく美しく』)、生活のためやむを得ず銀座のバーに勤めるママ(『女が階段を上る時』)、お妾さん(『妻として女として』)など、とても、一人の女優が演じたとは思えないほど、様々な役を演じ、そのあらゆる役において見事な演技であった。役者によっては個人の個性が前面に出てしまい、「何を演じても、誰それ自身」というタイプの俳優も少なくないが(たとえば、[[笠智衆]]は、演技というよりは自身の個性そのものが魅力となっていた俳優であると、[[山田洋次]]もNHKの「山田洋次監督が選ぶ日本の名作100本」のなかで指摘している)、高峰秀子の場合、その対極であり、まさに百変化とも言うべき、多様な役を、その役の性根をつかんで演じきった日本映画史上、稀有の名女優であった<ref name="prf"/>。晩年にいたっても、舞台出演は極めて少なく、「映画でデビューし映画で引退した」、日本映画史上、最高の大女優・名女優として評価される存在である。
== 人物・エピソード ==▼
==エッセイストとして==▼
[[File:Takamine-Hideko-1.jpg|thumb|140px|1954年]]▼
[[File:Takamine-Hideko-2.jpg|thumb|180px|1955年]]▼
▲=== エッセイストとして ===
秀子は、女優全盛期の時代から多くの本を出版し続けている。初の著書は[[1953年]](昭和28年)に刊行された、パリ滞在のエッセイ『巴里ひとりある記』(映画世界社)で、以降『まいまいつぶろ』(同)、『私のインタヴュー』(中央公論社)、『瓶の中』(文化出版局)、『いっぴきの虫』(潮出版社)などのエッセイを上梓した。また、松山との共著による『旅は道連れガンダーラ』(同)、『旅は道連れツタンカーメン』(同)などの旅行記、『台所のオーケストラ』(同)などの料理本も書いている。
120 ⟶ 123行目:
[[2013年]](平成25年)養女の斎藤明美により、未発表だったエッセイが発見され、3月に[[新潮社]]から『旅日記 ヨーロッパ二人三脚』のタイトルで刊行。この本は[[1958年]](昭和33年)に夫と欧州を旅した際の旅行記で、自宅の書棚に保管されていたという<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG18009_Y3A310C1CR0000/ 高峰秀子さんの未発表随筆発見 夫との欧州旅行記]、[[日本経済新聞]]、2015年5月3日閲覧</ref>。[[斎藤明美]]による多くの関連出版がある。
=== 画家、絵画モデル、美術収集家として ===
新東宝時代の[[1949年]](昭和24年)、銀座で開かれた絵の愛好会・[[チャーチル会]]に参加し、翌[[1950年]](昭和25年)の[[三越|日本橋三越]]での名士余技絵画展に十号の『緑衣』を出品、4700円の売値がつけられ、会の顧問をしていた画壇の巨匠[[梅原龍三郎]]の知遇を受けた<ref name="キネ旬4"/>。それ以来40年にわたる親交が続き、梅原により高峰がモデルとなった多くの肖像画が描かれることとなった。初めて秀子を描いた肖像画は『カルメン故郷に帰る』のロケ中に描かれ、目が大きくなりすぎて似ずに何度も描き直した。試行錯誤の後、目が大きいのではなく眼光が強いことに気付いたという。
127 ⟶ 130行目:
[[2005年]](平成17年)11月、梅原の絵画作品7点、[[宮本三郎]]作の1点、[[森田元子]]作の1点、[[堂本印象]]作の2点、計11点の肖像画を秀子本人が[[世田谷区]]に寄贈し、[[世田谷美術館]]に所蔵されている。
=== 私生活 ===▼
*1955年(昭和30年)に[[松山善三]]と結婚し、[[麻布十番]]近くの瀟洒だが、大女優と呼ばれる人物の邸宅としては質素な家に住んでいた。当初は、西洋の教会建築を模した建物であったようだが、老後に備えて建物を小じんまりしたものに改装し、晩年は殆ど外部との接触を絶ち、早寝早起きの生活で余生を楽しんでいたと言われる。最晩年には、[[文藝春秋]]の編集者・ライター、[[斎藤明美]]を養女としている。▼
[[1965年]](昭和40年)、[[市川崑]]に撮影が依頼された映画『[[東京オリンピック (映画)|東京オリンピック]]』が、完成前の試写会で[[河野一郎]](オリンピック担当国務大臣)が内容に疑問を投げるコメントを発したことをきっかけに大論争が巻き起こった際、「とってもキレイで楽しい映画だった。(文句をつけた河野は)頼んでおいてからひどい話じゃありませんか」「市川作品はオリンピックの汚点だなどと乱暴なことばをはくなんて、少なくとも国務相と名の付く人物のすることではない」と擁護コメントを雑誌や新聞に寄せた。▼
*大の愛煙家であった。著書『おいしい人間』によれば、初めて煙草を吸ったのは22歳の時、映画『愛よ星と共に』のために煙草を吸う練習をしたとあり、「それ以来、相当な[[ヘビースモーカー]]になり果てて今日に及んでいる」と書かれている。著書『コットンが好き』に、お気に入りの[[灰皿]]と[[ライター]]の写真があり、高峰の文章と共に紹介されている。86歳での死因は肺がんであった。▼
=== 交友 ===
▲==私生活==
▲1955年(昭和30年)に[[松山善三]]と結婚し、[[麻布十番]]近くの瀟洒だが、大女優と呼ばれる人物の邸宅としては質素な家に住んでいた。当初は、西洋の教会建築を模した建物であったようだが、老後に備えて建物を小じんまりしたものに改装し、晩年は殆ど外部との接触を絶ち、早寝早起きの生活で余生を楽しんでいたと言われる。最晩年には、[[文藝春秋]]の編集者・ライター、[[斎藤明美]]を養女としている。
▲==人物・エピソード==
▲[[File:Takamine-Hideko-1.jpg|thumb|140px|1954年]]
▲[[File:Takamine-Hideko-2.jpg|thumb|180px|1955年]]
*「江戸っ子健ちゃん」で共演した子役の母親を呼びとめて高峰は、「小さい頃不細工な子ほど、大きくなると可愛らしくなるらしいよ」と、わざわざ憎たらしいことを話しかけたという。その子役が花も恥じらう乙女に成長した時、やはりその子の母親をまたも呼びとめ、「ママちゃん、スマン見込み違いだった」と、さらに失礼なことを言ってトドメを刺した。その子役とは[[中村メイコ]]の事であり、言った本人の高峰はそのことをすっかり忘れていて、メイ子にとても恨まれていたという。ただしその後もメイ子の事を妹分のように可愛がっていた。
▲*大の愛煙家であった。著書『おいしい人間』によれば、初めて煙草を吸ったのは22歳の時、映画『愛よ星と共に』のために煙草を吸う練習をしたとあり、「それ以来、相当な[[ヘビースモーカー]]になり果てて今日に及んでいる」と書かれている。著書『コットンが好き』に、お気に入りの[[灰皿]]と[[ライター]]の写真があり、高峰の文章と共に紹介されている。86歳での死因は肺がんであった。
*[[1959年]](昭和34年)[[4月10日]]、[[上皇明仁|皇太子]]と[[上皇后美智子|正田美智子]]との成婚パレードの生中継にてゲスト解説を務めた。以来美智子妃との親交がある。『[[文藝春秋]]』で日本一の美人を決める対談企画があった際、高峰は「『美女』である以前に人柄や教養も含めた『美人』でないといけないという観点」から美智子妃を推し、企画で選出している。
*[[原節子]]が東宝へ移籍して知り合ってからは原を「お姉ちゃん」と呼ぶ間柄であった<ref name="prf"/>。▼
*若手時代に大先輩である[[杉村春子]]に化粧パフの洗いかたを指導した。杉村は文学座の後輩らに、高峰秀子から伝授された洗いかたとして、それを伝えたという。しかしパフの洗いかたを指導した当の本人の高峰は、その洗いかたをすっかり忘れていたばかりか、杉村に指導したことすら忘れていたという。▼
*自著のエッセイの装丁は長年の知己の[[安野光雅]]によるものだが、あるとき、安野のサイン会が開催された際、高峰がサインを待つ行列に並んでいた。それを見つけた安野から、「周りの人が見ていますよ」と声をかけられたところ、高峰は「別に構わないじゃない」と応じたという。▼
=== 政界との関わり ===
▲* [[1965年]](昭和40年)、[[市川崑]]に撮影が依頼された映画『[[東京オリンピック (映画)|東京オリンピック]]』が、完成前の試写会で[[河野一郎]](オリンピック担当国務大臣)が内容に疑問を投げるコメントを発したことをきっかけに大論争が巻き起こった際、「とってもキレイで楽しい映画だった。(文句をつけた河野は)頼んでおいてからひどい話じゃありませんか」「市川作品はオリンピックの汚点だなどと乱暴なことばをはくなんて、少なくとも国務相と名の付く人物のすることではない」と擁護コメントを雑誌や新聞に寄せた。<br/>高峰は直接河野に面会を求め、その席で高峰は市川と映画のすばらしさを訴えるとともに、河野が市川と面談するように依頼した<ref name="nojip249">[[#野地2001|野地2001]]、p.249</ref>。河野は談笑を交えて、「実は映画のことは少しもわからんのだ」と高峰に答えた<ref name="nojip249"/>。その後河野は高峰のとりもちで市川と面談を重ねた結果、制作スタッフの努力を認め、最終的に「できあがりに百パーセント満足したわけではないが、自由にやらせてやれ」と映画プロデューサーの[[田口助太郎]]に電話して矛を収めた<ref>[[#野地2001|野地2001]]、p.250</ref>。海外版の編集権などは市川に戻った。市川は後年の対談でもこの件を深く感謝している。
* 当時国交のなかった[[中華人民共和国|中国]]からの映画使節団が訪日した際、[[外務省]]からの依頼により夫妻でホスト役を担っていた。戦前の中国の大スターだった[[趙丹]]が[[江青]]の俳優時代を知っているという理由だけで江青に投獄された際には、ことある都度に知己を通じ「趙丹は元気にしているか」と呼び掛け続けて[[文化大革命]]による処刑を阻んだ。この経緯は『わたしの渡世日記』『いっぴきの虫』に詳しい。▼
*[[1971年]](昭和46年)2月10日、[[衆議院]][[逓信委員会]]「放送に関する小委員会」に(本名の松山秀子として)参考人として招かれ、テレビ番組の低俗化問題や、当時問題となっていた視聴者参加番組の賞品の高騰に関する所見を語った<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=106504833X00119710210 第65回国会 衆議院 逓信委員会放送に関する小委員会 第1号 昭和46年2月10日] 国会会議録検索システム</ref>。前年にフジテレビの『[[クイズ・キングにまかせろ!]]』の賞品として設けられた1,000万円のマンションの所有権が[[独占禁止法]]に違反しているという告発があった問題など([[クイズ番組#クイズ番組の賞金上限の制限]]参照)を受け、高峰は「暴力だとかエロだとか、そういうことが低俗になるかもしれませんけれども(略)クイズ番組をやっていて、何だかいろんな物をもらったり外国に行ったりする。あれが低俗の中の最も卑しい部類に入るのじゃないかと思う」と述べた。[[公正取引委員会]]と[[日本民間放送連盟]]は同年9月にすべてのクイズ番組の賞金・賞品の上限を100万円までと申し合わせる規制ルールを設けた。
=== その他 ===
*映画では[[佐田啓二]]をはじめ、[[田村高廣]]、[[仲代達矢]]、[[若山富三郎]]、[[天本英世]]、[[宝田明]]らなど年少の男優と夫婦役を演じることが多かった。この傾向は[[木下惠介]]作品に著しい。『永遠の人』で高峰扮するヒロインを陵辱して夫となり憎みあう夫婦を演じた仲代は、多数の名監督と映画史をともにしてきた俳優だが、[[瀬戸内寂聴]]との対談で、監督以外では唯一高峰の名を挙げ「厳しい人で、たくさんのことを教えられた」と述懐している<ref>『[[AERA]]』2010年6月14日号</ref>。
*[[市川崑]]は助監督時代に高峰の家に下宿していた仲(それ以前に高峰が京都に短期滞在した際、市川の隣室に下宿して食事などを共にしており、その縁で東宝京都撮影所閉鎖後に東京勤務となった市川が高峰家に1年あまり住んでいた)であり、デビュー作から2本に主演。その後市川が大監督となってからの出演はないものの、エッセイでは「戦友」「崑ちゃんと呼ばせて欲しい」と記し、前述の東京オリンピック映画騒動の際には率先して擁護に当たるなど、変わらぬ友情を示した。
*街を歩いていてもファンに追いかけられるという人気であったが、ある日逃げ込んだ銀座の骨董品屋で骨董品の魅力に取り付かれる。以後骨董品集めが趣味となり、造詣が深い。「いい仕事してますね」のセリフで有名な[[中島誠之助]]も「姐さん」と呼ぶ長年の知己であり、一緒に骨董屋を開いていたこともある。この経緯は自伝『にんげん蚤の市』に詳しい。
*『馬』の長期ロケで[[山形県]][[最上町]]に滞在した際に、高峰に一目惚れした少年がのちの[[ケーシー高峰]]で、芸名も初恋の人たる彼女に由来する。
▲*[[原節子]]が東宝へ移籍して知り合ってからは原を「お姉ちゃん」と呼ぶ間柄であった<ref name="prf"/>。
▲*若手時代に大先輩である[[杉村春子]]に化粧パフの洗いかたを指導した。杉村は文学座の後輩らに、高峰秀子から伝授された洗いかたとして、それを伝えたという。しかしパフの洗いかたを指導した当の本人の高峰は、その洗いかたをすっかり忘れていたばかりか、杉村に指導したことすら忘れていたという。
▲*[[大河内傳次郎]]主演の『新編 丹下左膳 隻眼の巻』『同 恋車の巻』にも出演しており、それが縁で当時建設中であった女人禁制の[[大河内山荘]]に招かれたことがある。
▲*当時国交のなかった[[中国]]からの映画使節団が訪日した際、[[外務省]]からの依頼により夫妻でホスト役を担っていた。戦前の中国の大スターだった[[趙丹]]が[[江青]]の俳優時代を知っているという理由だけで江青に投獄された際には、ことある都度に知己を通じ「趙丹は元気にしているか」と呼び掛け続けて[[文化大革命]]による処刑を阻んだ。この経緯は『わたしの渡世日記』『いっぴきの虫』に詳しい。
▲*自著のエッセイの装丁は長年の知己の[[安野光雅]]によるものだが、あるとき、安野のサイン会が開催された際、高峰がサインを待つ行列に並んでいた。それを見つけた安野から、「周りの人が見ていますよ」と声をかけられたところ、高峰は「別に構わないじゃない」と応じたという。
== 受賞・受章歴 ==
|