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15歳で江戸に奉公へ出たあと、俳諧師としての記録が現れ始める25歳の時まで一茶の音信は約10年間途絶える。奉公時代の10年間について、後に一茶は非常に苦しい生活をしていたと回顧している。25歳の時、一茶は江戸の東部や房総方面に基盤があった葛飾派の俳諧師として再び記録に現れるようになる。葛飾派の俳諧師として頭角を現しだした一茶は、当時の俳諧師の修業過程に従い、東北地方や西国に俳諧行脚を行った。また自らも俳諧や古典、そして当時の風俗や文化を貪欲に学び、俳諧師としての実力を磨いていった。39歳の時に一茶は父を失い、その後足かけ13年間、継母と弟との間で父の遺産を巡って激しく争うことになる。
 
40に入る頃には、一茶は主に房総方面への俳諧行脚で生計を維持するようになった。また[[夏目成美]]ら、葛飾派の枠を超えて当時の実力ある俳諧師との交流を深めていった。その中で大衆化の反面、俗化著しかった当時の俳壇の中にあって独自の「一茶調」と呼ばれる作風を確立していく。やがて一茶の名は当時の俳句界で広く知られるようになった。しかし俳諧行脚で生活する一茶の生活は不安定であった。生活の安定を求めた一茶は、遺産相続問題で継母と弟と交渉を続けるとともに、故郷の北信濃で俳諧師匠として生活していくために一茶社中を作っていく。
 
51歳の時になってようやく遺産相続問題が解決し、一茶は故郷柏原に定住することになる。俳諧師として全国的に名が知られるようになった一茶は、北信濃に多くの門人を抱えた俳諧師匠となり、父の遺産も相続して待望の生活の安定を得ることが出来た。52歳にして結婚を果たしたが、初婚の妻との間の4人の子どもは全て夭折し、妻にも先立たれた。再婚相手との結婚生活は早々に破綻し、身体的には中風の発作を繰り返し、64歳の時に3度目の結婚をするものの、65歳で亡くなる数カ月前には火事で自宅を焼失するなど、後半生も不幸続きの人生であった。また一茶は弟との遺産相続問題などが尾を引いて、故郷柏原では必ずしも受け入れられず、一茶自身も故郷に対して被害意識を最後まで持ち続けた。