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'''朱 亮祖'''(しゅ りょうそ、生年不詳 - [[洪武]]13年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]([[1380年]]
== 生涯 ==
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[[陳友諒]]に対する作戦に参加して[[南昌府|南昌]]・[[九江府|九江]]を下し、[[鄱陽湖の戦い]]に参戦し、[[武昌府|武昌]]を攻略した。広信衛指揮使に進んだ。[[李文忠]]が李伯昇を新城で撃破すると、亮祖は勝利に乗じてその陣営数十を焼き討ちし、同僉元帥ら600人あまり、軍士3000人・馬800匹を捕らえた。李伯昇はわずか数騎で遁走した。至正25年([[1365年]])、亮祖は[[胡深]]と合流して[[陳友定]]を攻め、鉛山から浦城を奪取し、崇安・建陽を攻略した。桐廬を攻撃し、余杭を包囲した。浙江行省参政に転じ、李文忠を補佐して[[杭州]]を守った。至正27年([[1367年]])、水陸両軍数万の兵を率いて方国瑛を討った。天台を下し、[[台州 (浙江省)|台州]]に進攻した。方国瑛が逃走すると、亮祖は黄巌まで追撃して、その守将の哈児魯を降し、台州府の諸県をめぐって[[仙居県]]などを下した。兵を[[温州 (浙江省)|温州]]に進めた。方明善が抗戦したため、亮祖はこれを撃破し、温州を攻略した。温州府の諸県をめぐって[[瑞安市|瑞安県]]を下し、方明善を盤嶼で撃破し、楚門まで追撃した。方国瑛と方明善は亮祖の軍営を訪れて降った。
洪武4年([[1371年]])、[[夏 (元末)|夏]]を攻撃した。征虜右副将軍となり、[[成都府|成都]]に進軍したが、[[明昇]]はすでに降伏していた。亮祖は帰順していない州県を巡って下した。南京に凱旋したが、軍校を勝手に殺したとして、褒賞に預らなかった。洪武8年([[1375年]])、[[傅友徳]]とともに[[北京市|北平]]に駐屯した。南京に召還されると、[[李善長]]とともに[[屯田]]を監督管理することになり、海路をとって巡察した。洪武12年([[1379年]])、広東に出向して駐屯した。
亮祖は勇敢でよく戦ったが、学問を知らず、不法のことが多かった。番禺知県の[[道同]]が亮祖の不法を奏聞した。亮祖は道同を誣告する上奏をして、道同を処刑させた。洪武帝はこの経緯を知ると、翌洪武13年
== 子女 ==
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