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Acaunto (会話 | 投稿記録)
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|日本語国名 = 隋
|公式国名 = {{lang|zh-classical|'''大隋'''}}
|建国時期 = [[589581年]]
|亡国時期 = [[618年]]
|先代1 = 北周
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|首都 = [[長安|大興城]]、[[洛陽|洛陽城]]
|元首等肩書 = [[#隋の皇帝|皇帝]]
|元首等年代始1 = [[589581年]]
|元首等年代終1 = [[604年]]
|元首等氏名1 = [[楊堅|高祖 文帝]]
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}}
{{ウィキポータルリンク|歴史学/東洋史}}{{ウィキポータルリンク|中国}}
'''隋'''([[呉音]]: ずい、[[漢音]]: すい、{{ピン音|Suí}} 、[[581年]] - [[618年]]{{efn|<ref>[[宮崎市定]]は「隋代史雑考」(中公文庫版『隋の煬帝』所収)において、隋は[[恭帝侗]]が帝位を奪われる[[619年]]まで存続していると説いた。しかし、唐の編纂した[[正史]]である『[[隋書]]』等では、618年に[[恭帝侑]]が唐に[[禅譲]]した時点をもって隋が滅んだものとしており、また『隋唐帝国』(布目潮渢、栗原益男著)では煬帝が暗殺されたことをもって隋が滅んだものとしている。本項ではより一般的と考えられる618年を滅亡年としている<ref name="miyazaki">「隋代史雑考」(中公文庫版『隋の煬帝』所収)</ref>。}})は、[[中国]]の[[王朝]]。[[魏晋南北朝時代]]の混乱を鎮め、[[西晋]]が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代[[煬帝]]の失政により滅亡し、その後は[[唐]]が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の[[中華人民共和国]][[西安市]])。[[国姓]]は楊。現代で「隨」は「随」の[[旧字体]]<ref>{{Cite web|title=随 {{!}} 漢字一字 {{!}} 漢字ペディア|url=https://www.kanjipedia.jp/kanji/0003769700|website=www.kanjipedia.jp|accessdate=2021-08-07}}</ref>。
 
== 国号 ==
{{中国の歴史}}
{{ベトナムの歴史}}
隋という国号(王朝名)は建業者である[[楊堅|高祖楊堅]]の[[北周]]時代の爵号である隨国公に因む。楊堅がかつて隨州の刺史に任じられたことで隋朝の名称の由来となった。この隨(国)は地名で現[[中華人民共和国]][[湖北省]][[随州市]]に名を遺しているが、唐の時代までは「隨」の略字として[[辵部]](しんにょう、辶)を省いた「隋」と相互に通用され、更にその「隋」から「」を省いた「陏」の字が用いられることもあり <ref group="注釈">陏の例としては[[開皇]]13年(593年)の[[曹子建墓碑]]([[曹子建]]の墓碑)がある。</ref>、その後、おそらくは[[中唐]]以降に「隨」と「隋」とは区別されて地名は「隨」、王朝名は 「隋」と固定したようである。その後、高祖楊堅が「隨」字に含まれる辵部に「走る」という字義があって前代迄の寧所に遑なく東奔西走した歴代を髣髴させるためにこれを去り、自らの王朝を「隋」と名付けたとする説、及び辵部には平穏に歩を進める字義がある一方で「隋」には供物としての肉の余りという字義があり、楊堅は改字によって却って王朝の命運を縮めたという附会説も行われ、これが[[宋 (王朝)|宋朝]]の[[儒学者]]たちの儒教的史観による[[革命]]解釈に適合するものとして喜ばれたために、以降はこの楊堅改字説が定説となった{{efn|<ref>宮崎前掲論考。文献上で確認できる楊堅作字説の嚆矢は[[南唐]]の[[徐鍇]]『[[説文繋伝]]』という</ref name="miyazaki"/>。}}
 
== 隋室楊氏の出自 ==
隋の室である楊氏は『[[隋書]]』によれば、[[後漢]]代の有名な官僚の[[楊震]]の子孫にあたるという(ただし、[[谷川道雄]]は「隋の帝室楊氏は、[[漢|漢代]]以来の名族として名高い弘農郡の楊氏の出身と称するが、真偽のほどはさだかでない。確実な記録では、祖先は[[北魏|北魏時代]]、長城北辺の武川鎮で国境防衛にあたっていた[[軍人]]の家柄で、その通婚関係からみて、非漢民族の血を多く交えているらしい」と述べている<ref name="谷川道雄">{{Kotobank|隋|[[日本大百科全書]]}}</ref>)。楊震は、かつての教え子が「誰も知らないことですから」と賄賂を渡そうとしたところ、「天知神知我知子知何謂無知(天地の神々が知っている。私とあなたも知っている。誰も知らぬとどうして言えよう)」と言って拒否したという[[四知]]の逸話で有名な人物である。その後、楊氏は[[北魏]]初期に[[武川鎮]]へと移住し、楊堅の父の[[楊忠]]に至るという。武川鎮とは北魏において首都[[大同市|平城]]を北の[[柔然]]から防衛する役割を果たしていた軍事基地の一つである([[武川鎮軍閥]]、[[六鎮の乱]]などを参照)。楊震以後の系図は「楊震…楊鉉 - 楊元寿 - 楊恵嘏 - 楊烈 - 楊禎 - 楊忠 - 楊堅」となるが、楊震と楊鉉のあいだは二種類の系図(『[[隋書]]』文帝紀と『{{仮リンク|新唐書宰相世系表|zh|新唐書宰相世系表}}』)が全然合わず、『[[隋書]]』は、楊鉉を楊震の八代の孫としているのに対して、『{{仮リンク|新唐書宰相世系表|zh|新唐書宰相世系表}}』は、十九代の孫としており、さらに、両系図ともに途中に名前も不明の世代が多く、これらはいずれも偽作の系図であり、それには二通りあったことになる<ref name="布目潮渢23"/>。一つは隋代にすでに偽作されており、もう一つは唐代になってからの偽作とみられ、これは隋室楊氏を[[漢民族|漢人]]出身としなければ都合が悪いと思っての仮託とみなされる<ref name="布目潮渢23">{{Cite book|和書|author=[[布目潮渢]]|date=2018-06-11|title=隋の煬帝と唐の太宗 暴君と明君、その虚実を探る|series=新・人と歴史 拡大版 27|publisher=[[清水書院]]|isbn=4389441272|page=23}}</ref>
 
北魏において、皇室の[[拓跋氏]]を元氏に変えるといった風に、[[鮮卑]]風の名前を[[漢民族|漢人]]風に改めるという[[漢化政策]]が行われたことがあったが、北周ではこれに反発して、姓名を再び鮮卑風に改め、漢人に対しても鮮卑化政策を行った。この時、漢人である楊氏にも普六茹(ふりくじょ)という姓を与えられたとされる。普六茹とは[[鮮卑語]]で[[ヤナギ]]のことである。楊堅も、那羅延という鮮卑風の小字を持っていた。ただし楊氏については、元々は[[鮮卑]]の出身で本来の姓が普六茹であり、北魏の漢化政策の際に付けられた姓が楊であるという説<ref name="アーサー・F・ライト">{{Cite book|和書|author=[[アーサー・F・ライト]]|authorlink=|title=隋代史|series=|date=1982-11|publisher=[[法律文化社]]|isbn=|page=64}}「隋朝の創業者である楊堅は、黄河平原の西端近く(弘農郡華陰県=陝西省渭南地区華陰県)に本貫のある古い名族に生まれた。その祖先は六代の間、北朝の非漢族諸王朝のもとで官人となり、支配階級である[[テュルク系民族|テュルク]]・[[モンゴル系民族|モンゴル]](鮮卑)エリートの一族との通婚によってその権力と地位を維持してきた。楊堅の父である楊忠は、最初、北魏に仕えていたが、五三四年、北魏が西魏と東魏に分裂したとき、楊忠は西魏の創業者である宇文泰に忠節を尽くす道を選んだ。楊忠は、文武にわたる功績により、高位で酬いられ、隋公(隋国公)に封ぜられた。また、五世紀末年の徹底的な漢化政策において漢姓に変更されたテュルク・モンゴル(鮮卑)の姓を宇文泰が、その部下に対して復活したとき(虜姓再行)、彼のもとで軍功を立てた漢姓の者に漢姓と同じ意味の(鮮卑)の姓を授けた。楊忠は、[[モンゴル語族|モンゴル諸語]]で柳の一種(楊)を意味するブルスカンの転じた普六茹という姓を授けられた」</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[姚薇元]]|title=北朝胡姓考(修訂本)|series=|date=|year=2007|publisher=[[中華書局]]|page=72-73}}「楊氏(普六茹氏)は雁門茹氏、つまりは茹茹(蠕蠕、[[柔然]])の後裔」</ref><ref>{{Cite news|author=[[楊海英]]|url=|title=中国はなぜ自己中心的なのか? 大国になりたいなら「中華思想」を捨てよ|newspaper=[[文藝春秋special]]|publisher=[[文藝春秋]]|year=|month=|date=2016-07|archiveurl=|archivedate=|deadurldate=|page=205}}「例えば、六世紀の終わり、三百年ぶりにシナ地域を統一した隋は北方遊牧民の一つ、鮮卑系の王朝だった。それが漢人編纂の後の史書では、後漢の名臣、楊震の子孫であると漢化されて伝えられてきたのである」</ref><ref>{{Cite news|author=[[岡田英弘]]・[[宮脇淳子]]|url=|title=滅亡の歴史を理解するために もう騙されない これが中国史の正体だ|newspaper=[[文藝春秋special]]|publisher=[[文藝春秋]]|year=|month=|date=2016-07|archiveurl=|archivedate=|deadurldate=|page=67}}「この隋も鮮卑族の国ですから、シナは完全にアルタイ化してしまうわけです」「隋、唐ともに鮮卑人のつくった王朝です」</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[岡田英弘]]|authorlink=|title=中国文明の歴史|series=[[講談社現代新書]]|date=2004-12-18|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061497610|page=102}}「この時代の王朝である隋も唐も、その帝室は鮮卑系の王朝であった北魏、西魏、北周のもとで実現した、鮮卑族と、鮮卑化した漢族の結合した集団の中から出てきたものである」</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[加藤徹]]|authorlink=|title=貝と羊の中国人|series=[[新潮新書]]169|date=2006-06-16|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4106101694|date=2006|page=112-113}}「隋の楊氏も唐の李氏も、遊牧民族である鮮卑族の血を、濃厚に引いていた」</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[守屋洋]]|authorlink=|title=中国皇帝列伝|url=https://books.google.com/books?id=6p8AjHhmEkkC&pg=PT109&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false|series=[[PHP文庫]]|date=2006-11-02|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569667300|page=109}}「楊氏はもと胡族(鮮卑)から出たのではないかと言われているが、このほうがむしろ信憑性が高いかもしれない」</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[外山軍治]]・[[礪波護]]|title=隋唐世界帝国|series=東洋の歴史5|date=1967|year=|publisher=[[人物往来社]]|page=12}}「楊という漢姓を名乗っているが、その実は中国化した鮮卑人であろうという説が有力である」</ref><ref>{{Kotobank|鮮卑|日本大百科全書}} [[佐藤智水]]「その後の北朝王朝(北魏、東魏、西魏、北斉、北周)および隋・唐王朝の宗室も祖先は鮮卑系である」</ref>もあり、その根拠として以下のものが挙げられる。
[[北魏]][[孝文帝]]のとき、帝室の[[拓跋氏]](虜姓)を[[元 (姓)|元氏]](漢姓)に変えるといった風に、虜姓とよばれる北族の姓を漢姓に改めるという[[漢化政策]]が行われたことがあったが、[[西魏|西魏末年]]、これに反発して、鮮卑国粋主義の波にのって姓名を再び漢姓から虜姓に改姓(虜姓再行)し、[[漢民族|漢人]]にも虜姓を賜与し、漢人に対しても鮮卑化政策を行い、[[554年]]ころに楊堅の父の[[楊忠]]にも普六茹<small>(ふりくじょ)</small>という虜姓を与えられたとされ<ref name="布目潮渢2829"/>、楊堅も普六茹堅とよばれていた。普六茹は楊<small>([[ヤナギ]])</small>の[[鮮卑語]]である<ref >{{Cite book|和書|author=[[布目潮渢]]・[[栗原益男]]|date=1997-10-09|title=隋唐帝国|series=[[講談社学術文庫]]|publisher=[[講談社]]|isbn=4061593005|page=28}}</ref>。楊堅も、那羅延という鮮卑風の小字を持っていた。
 
* [[鮮卑|鮮卑人]]の[[宇文泰]]が自分と同じ立場の鮮卑人の[[武川鎮軍閥]]関係者から[[八柱国]]と十二大将軍を置いたが、十二大将軍の一人が陳留郡開国公[[楊忠]]([[楊堅]]の父)であること([[唐]]の初代皇帝[[李淵]]は八柱国の一人の隴西郡開国公[[李虎]]の孫)<ref>{{Cite book|和書|author=[[岡田英弘]]|authorlink=|date=2005-09-16|title=だれが中国をつくったか|series=[[PHP新書]]|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569646190|page=70|url=https://books.google.com/books?id=qn1xBAAAQBAJ&pg=PT70&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false}}</ref>
しかし、八人の柱国大将軍とその下の十二人の大将軍から構成された西魏常備軍の[[八柱国]]・十二大将軍は、[[李虎]]([[唐]]の高祖[[李淵]]の祖父)、[[李弼]](隋末反乱期の英雄[[李密 (隋)|李密]]の曾祖父)、[[楊忠]]([[楊堅]]の父)を除いては鮮卑系であり、八柱国・十二大将軍の家は、本来すべて鮮卑系であるが、上記の三氏、とくに隋室楊氏、唐室李氏は、漢人に君臨する皇帝となったために、後世、本来漢人であったように系譜を偽作したのではないかと疑われる<ref name="布目潮渢2829">{{Cite book|和書|author=[[布目潮渢]]・[[栗原益男]]|date=1997-10-09|title=隋唐帝国|series=[[講談社学術文庫]]|publisher=[[講談社]]|isbn=4061593005|page=28-29}}</ref>。隋室楊氏は、[[西魏]]・[[北周]]で頭角を現した旧六鎮の北族を出自とする新興の[[氏族]]に過ぎず、その勢力は甚だ脆弱であり、北族系氏族が漢人[[閨閥|門閥]]を標榜して王朝を立てた先達の[[北斉]]に倣い、北族であった隋室楊氏が自らの基盤を強化するために漢人門閥の弘農楊氏を冒称し、[[血縁]]に限らず楊姓の者を「[[宗人]]」「[[皇族]]」として[[宗衛]]に集めて積極的に取り込み、隋室本体の基盤を強化したものであり、元々は[[鮮卑]]の出自で西魏・北周時代に称していた普六茹が本来の姓で、北魏の漢化政策の際に付けられた姓が楊氏であるという説がある<ref name="堀井裕之"/>。
* 楊氏は[[楊震]]から出たとされるが真偽はわからないこと<ref name="守屋洋">{{Cite book|和書|author=[[守屋洋]]|authorlink=|date=2006-11-02|title=中国皇帝列伝|series=[[PHP文庫]]|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569667300|page=109|url=https://books.google.com/books?id=6p8AjHhmEkkC&pg=PT109&redir_esc=y#v=onepage&q&f=falseef}}</ref>
 
日本学界では、[[布目潮渢]]<ref>{{Kotobank|楊堅|[[日本大百科全書]]}}「後漢の学者・政治家である楊震の子孫で、弘農華陰の人と称しているが、おそらくは漢人ではなく鮮卑族であろう。」</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[布目潮渢]]|date=2018-06-11|title=隋の煬帝と唐の太宗 暴君と明君、その虚実を探る|series=新・人と歴史 拡大版 27|publisher=[[清水書院]]|isbn=4389441272|page=24|quote=隋室の楊氏が本来どのような家柄であるかを探求しなければならない。あるいは鮮卑族ではないかともいわれているが、それは鉉の子の元寿に由来する。}}</ref>、[[古松崇志]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[古松崇志]]|date=2021-11-04|url=https://www.google.co.jp/books/edition/岩波新書_中國的歷史3_草原的/R-ROEAAAQBAJ?hl=ja&gbpv=1&pg=PT39&printsec=frontcover|title=中國的歷史3:草原的稱霸|series=|publisher={{仮リンク|聯經出版|zh|聯經出版}}|isbn=9789570860511|page=39|quote=唐朝開國者李淵(唐高祖,六一八年-六二六年在位)的祖先來自鮮卑族,原本使用胡姓大野氏,北魏時代為生活於武川鎮一帶的遊牧民。在建立唐朝後並稱漢人名門望族隴西李氏,隠去自己北方遊牧民的出身,藉此宣揚自身乃是中華的正統統治者。建立隋朝的楊氏也與李氏有類似的出身。}}</ref>、[[楊海英]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[楊海英]]|date=2019-03-08 |title=逆転の大中国史 ユーラシアの視点から|series=|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=416791252X|page=25-26|quote=それは、歴史とのむきあい方にもあらわれている。つまり、事実にむきあうのではなく、自分たちの都合のいいところだけとりこむのだ。だから、異民族による征服王朝であることがわかっていながら、「偉大な漢民族にとって隋唐時代がもっとも華やかな王朝であった」とか、「元朝は、中国がもっとも強大な領土を保有した時代だ」と平気で噓をつく。そればかりか、「チベットやモンゴルは清朝の一部だったのだから、いまも自分たちの領土のはずだ」と、現在の侵略的支配や搾取を肯定する論理に利用するのである。}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[楊海英]]|date=2019-03-08 |title=逆転の大中国史 ユーラシアの視点から|series= |publisher=[[文藝春秋]] |isbn=416791252X|page=16|quote=事実、シナ地域の歴史をたどれば、ユーラシアにまたがって交易をおこない、国際的な文化が花開いた時期がある。たとえば日本との交流もさかんだった隋・唐、世界最大の帝国とされるモンゴル帝国(元)、清などの繁栄は、まさにアジアの大帝国とよばれるにふさわしい。だが、これらはいずれも非漢民族による征服王朝なのだ。端的にいえば、遊牧民が建立した王朝であった。たとえば、六世紀の終わり、三百年ぶりにシナ地域を統一した隋は北方遊牧民のひとつ、鮮卑拓跋系の王朝だった。第四章でもふれるが、それが漢人編纂の後の史書では、後漢の名臣の楊震の子孫であると「シナ化」されてつたえられてきたのである。隋につづく唐も鮮卑拓跋系で、首都長安には東アジアだけでなく、いわゆるシルクロードを介して西方からさまざまな人々がおとずれ、商業活動や文化活動が展開された。}}</ref>、[[宮脇淳子]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[宮脇淳子]]|date=2002-10-01|title=モンゴルの歴史―遊牧民の誕生からモンゴル国まで|series=刀水歴史全書 |publisher=[[刀水書房]]|ISBN=978-4887082441|page=29|quote=中国王朝の隋も唐も、王朝の祖は、この西魏に仕えた軍人である。西魏で実権を握った宇文泰は鮮卑人で、自分に従った鮮人と漢人の軍人たちを、遊牧騎馬民の伝説の三十六部族・九十九氏族に再編成した。そして漢人には鮮卑の姓を与えた。漢姓と鮮卑姓はどちらを使ってもよく、簡潔に書きたいときは漢名、正式に名乗るときは鮮卑名を使ったらしい。こうして、鮮卑人と鮮卑化した漢人の連合体が陝西省と甘粛省にできたが、この連合体が、宇文泰の息子が皇帝となった北周、これを乗っ取った隋、そのあとの唐の政権の基盤となった。}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[宮脇淳子]]|date=2006-02-01|title=世界史のなかの満洲帝国|series=[[PHP新書]]|publisher=[[PHP研究所]]|ISBN=4569648800|page=39|quote=六一八年、隋の楊帝は反乱で殺され、唐が建国された。ちなみに隋も唐も、帝室の祖先は、もともと大興安嶺出身の鮮卑族である。後漢末の一八四年、宗教秘密結社が決起した「黄巾の乱」と、これを鎮圧した政府軍の内戦である一八九年の「董卓の乱」のせいで、漢人人口は激減した。三国時代を通じて、周辺の夷狄が大量に内地に移住していたのである。中国史で「五胡十六国の乱」といわれるものは、華北に移住した異民族が、つぎつぎに十六国を建国したもので、そののち華北を統一した北魏も鮮卑族出身で、隋と唐の支配層は、この北魏の系統である。}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[宮脇淳子]]|date=2020-04-30|title=朝鮮半島をめぐる歴史歪曲の舞台裏 韓流時代劇と朝鮮史の真実|series=[[扶桑社新書]]|publisher=[[扶桑社]]|ISBN=978-4594084523|page=23|quote=273年ぶりに出現したシナの統一王朝。北朝の北周を引き継いで建国され、589年に南朝の陳を滅ぼした。皇室の楊氏は鮮卑族出身。}}</ref>、[[岡田英弘]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[岡田英弘]]・[[宮脇淳子]]|title=滅亡の歴史を理解するために もう騙されない これが中国史の正体だ|newspaper=[[文藝春秋special]]|publisher=[[文藝春秋]]|year=|month=|date=2016-07|page=67|quote=この隋も鮮卑族の国ですから、シナは完全にアルタイ化してしまうわけです。…隋・唐ともに鮮卑人のつくった王朝です。}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[岡田英弘]]|title=中国文明の歴史|series=[[講談社現代新書]]|date=2004-12-18|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061497610|page=102|quote=この時代の王朝である隋も唐も、その帝室は鮮卑系の王朝であった北魏・西魏・北周のもとで実現した、鮮卑族と、鮮卑化した漢族の結合した集団の中から出てきたものである。}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[岡田英弘]]|date=2005-09-16|title=だれが中国をつくったか|series=[[PHP新書]]|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569646190|page=68|quote=約百年後の五三四年、北魏は東西に分裂し、東魏は北斉に、西魏は北周に取って代わられる。やがて北周は北斉を滅ぼすが、その北周は隋に取って代わられる。これらはみな、鮮卑系の王朝である。そして隋の文帝は五八九年、南朝の陳を併合して、中国世界はふたたび統一された。もともと非中国人だった鮮卑が、中国を再建したことになる。}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[岡田英弘]]|date=2005-09-16|title=だれが中国をつくったか|series=[[PHP新書]]|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569646190|page=70|quote=隋・唐の帝室は、ともに西魏の宇文泰とともに興った。宇文泰は鮮卑人だったが、五三四年、北魏が東西に分裂すると、西魏の文帝を奉じて長安に独立し、東魏の高歓(やはり鮮卑)と対立した。五五〇年、宇文泰は自分と同じ立場の鮮卑人を八柱国とし、その下に二人ずつの大将軍を置いたが、八柱国の一人は隴西郡開国公李虎であり、もう一人の柱国の独孤信の下の大将軍の一人は陳留郡開国公楊忠である。そして楊忠の息子の楊堅は、隋の初代の皇帝・高祖文帝であり、李虎の孫の李淵は、唐の初代の皇帝・高祖である。これでわかるように、隋も唐も、鮮卑出身だったのである。さて、唐の朝廷は、南北朝時代の「正史」として、宋・南斉・梁・陳を『南史』で、北魏・東魏・西魏・北斉・北周・隋を『北史』で、それぞれ「本紀」を立てて扱った。これは二つの系列の皇帝を認めたことで、「天命」にも二つ、「正統」にも二つがあることになる。自分が鮮卑系である唐の政治的な立場では、北朝も「正統」であると主張するほかに道はなかったのである。おもしろいことに、『北史』の冒頭には、北魏の帝室の出自を述べて、「祖先は黄帝であり、黄帝の息子の昌意の末子が北方に国を建て、そこに大鮮卑山があったので、鮮卑と号するようになった」といっている。これは司馬遷の『史記』をまねて、鮮卑系の北朝にも歴史のはじまりにさかのぼる、中国人の南朝と対等の「正統」の資格がある、と主張しているのである。}}</ref>、[[加藤徹]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[加藤徹]]|title=貝と羊の中国人|series=[[新潮新書]]169|date=2006-06-16|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4106101694|page=112-113|quote=隋の楊氏も唐の李氏も、遊牧民族である鮮卑族の血を、濃厚に引いていた。}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[加藤徹]]|url=https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/20190921.html|title=則天武后 シリーズ女王・女帝|date=2019-09-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210416175530/https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/20190921.html|archivedate=2021-04-16|quote=西魏・北周・隋・唐の支配階層は、鮮卑民族の色が濃厚な、いわゆる「武川鎮軍閥」ないし「関隴集団」であった。}}</ref>、[[外山軍治]]<ref name="隋唐世界帝国"/>、[[礪波護]]<ref name="隋唐世界帝国">{{Cite book|和書|author=[[外山軍治]]・[[礪波護]]|title=隋唐世界帝国|series=東洋の歴史5|date=1967|publisher=[[新人物往来社|人物往来社]]|page=12|quote=楊という漢姓を名乗っているが、その実は中国化した鮮卑人であろうという説が有力である。}}</ref>、[[佐藤智水]]<ref>{{Kotobank|鮮卑|[[日本大百科全書]]}}「その後の北朝王朝(北魏・東魏・西魏・北斉・北周)および隋・唐王朝の宗室も祖先は鮮卑系である。」</ref>、[[村元健一]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[村元健一]]|date=|title=隋都城の成立過程-難波の都城化を考えるための覚書|journal=|volume=|publisher=[[大阪歴史博物館]]|url=http://www.mus-his.city.osaka.jp/education/publication/kyodokenkyu/pdf/kyodo-14/kyodo-14_03.pdf|page=30|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210922084919/http://www.mus-his.city.osaka.jp/education/publication/kyodokenkyu/pdf/kyodo-14/kyodo-14_03.pdf|archivedate=2021-09-22|quote=文帝の出自である楊氏は、漢族の名門である弘農楊氏を名乗るが、実態は鮮卑系で宇文氏に従った軍閥である。}}</ref>、[[堀井裕之]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[堀井裕之]]|title=隋代弘農楊氏の研究 : 隋唐政権形成期の「門閥」|series=東洋文化研究|volume=19|publisher=[[学習院大学東洋文化研究所]]|url=http://hdl.handle.net/10959/00004298|page=427|date=2017-03|quote=隋代の越公房楊氏に関する先行研究として、隋唐政権の形成過程やその性格の解明を視野に入れて楊素・楊玄感の事跡を考察した布目潮渢氏や、当該時期の門閥官僚の典型として楊素とその一門を取り上げた欠端実氏の研究がある。両氏の研究は重なり合う点、あるいは相互補完する点がある。まず、両氏ともに楊素が本貫地との地縁を保持する漢人門閥弘農楊氏の本宗であることを指摘し、本来は北族であった隋室が自ら弘農楊氏を標榜したため、越公房楊氏に敬意を払い重用せざるを得なかったと推論する。}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[堀井裕之]]|title=隋代弘農楊氏の研究 : 隋唐政権形成期の「門閥」|series=東洋文化研究|volume=19|publisher=[[学習院大学東洋文化研究所]]|url=http://hdl.handle.net/10959/00004298|page=412|date=2017-03|quote=どうして隋朝政権は越公房を本宗とする弘農楊氏を「宗人」、「皇族」と見なして、宗正寺や宗衛の高官に起用したのであろうか。理由の一つは、隋室が漢人門閥の弘農楊氏を標榜していたからである。しかしながら、その系譜には信憑性がなく、彼ら一族で確かなのは、楊堅の高祖父の楊元寿が北魏時代に北辺の武川鎮の司馬となったことで同地に移り住んだこと、そして、北魏末の六鎮の乱に始まる動乱の渦中にあって、楊堅の父の楊忠が西魏・北周政権に仕えて有力な功臣として大司空・隋国公に栄達し一族が勃興したこと、という二点のみであった。西魏・北周時代に称していた「普六茹」が本来の姓で、北族であったというのが有力である。従って、新興の隋室楊氏の勢力は甚だ脆弱であったとみてよい。そこで、楊堅が採った方策が、血縁に限らず楊姓の者を「宗人」、「皇族」として宗衛に集めて、隋室本体の基盤を強化しようとするものだったのではなかろうか。}}</ref><ref name="堀井裕之">{{Cite book|和書|author=[[堀井裕之]]|title=隋代弘農楊氏の研究 : 隋唐政権形成期の「門閥」|series=東洋文化研究|volume=19|publisher=[[学習院大学東洋文化研究所]]|url=http://hdl.handle.net/10959/00004298|page=406-407|date=2017-03|format=|quote=隋朝政権を創業した楊堅の一族は、西魏・北周で頭角を現した旧六鎮の北族を出自とする新興の氏族に過ぎず、その勢力は脆弱であった。自らの基盤を強化するために漢人門閥の弘農楊氏を自称し、その本宗として「華陰諸楊」に対して影響力を持つ越公房を積極的に取り込もうとしたことは、想像に難くない。…最近では会田大輔氏が、隋朝創業前夜、北周の宣帝が「天元皇帝」を自称し、胡漢を超越した「中華皇帝」の道を模索して挫折したことを論じ、本来、北族であった隋室楊氏・唐室李氏が漢人門閥を標榜して、「漢人」皇帝として中華を統べた背景も視野に入れて、当該時代を理解すべきことを提唱した。…本稿では、北族出身の隋室楊氏が自らの基盤を漢人門閥の弘農楊氏に求めたことが明らかになった。北族系氏族が漢人門閥を標榜して王朝を立てた隋朝の先達として北斉があり、その継承者として唐朝がある。}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=[[堀井裕之]]|title=唐初の氏族政策と「門閥」勢力 : 隋唐政権形成史の研究|issue=明治大学 博士論文(史学) 乙第539号 |year=2018|naid=500001086359|url=https://hdl.handle.net/10291/19587}}</ref>、[[会田大輔]]<ref name="堀井裕之"/>、片山剛<ref>{{Cite book|和書|author=片山剛|date=|title=漢族と非漢族をめぐる史実と言説|journal=|volume=|publisher=大阪大学中国文化フォーラム|url=http://www.law.osaka-u.ac.jp/~c-forum/box5/katayama.pdf|page=5|issn=|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170628183938/http://www.law.osaka-u.ac.jp/~c-forum/box5/katayama.pdf|archivedate=2017-06-28|quote=歴史の実際に照らせば、たとえば五胡十六国時代以降は鮮卑などの民族が黄河流域の統治者となり、のちには隋・唐といった王朝を立てます。}}</ref>、[[宇和川哲也]]<ref name="宇和川哲也">{{Cite book|和書|author=[[宇和川哲也]]|date=1984-12|title=西魏・北周の胡姓賜与|newspaper=人文論究|publisher=[[関西学院大学]]|url=http://hdl.handle.net/10236/5227|page=82|quote=楊忠・楊堅父子の出自についてしばしば問題となるが、私は、一、楊忠が目立った活躍がないにもかかわらず創成期の十二大将軍の一人に選ばれたこと、二、宇文氏・独孤氏と姻戚関係を結んでいたことから、隋室楊氏は、宇文氏と近い北族系人物であると考える。}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[宇和川哲也]]|date=1984-12|title=西魏・北周の胡姓賜与|newspaper=人文論究|publisher=[[関西学院大学]]|url=http://hdl.handle.net/10236/5227|page=65-67|quote=楊忠は、弘農華陰人とあるが、しばしば血統が問題となる隋の文帝楊堅の父であり、北族系人物が弘農楊氏を冒称したものと考えられる。また楊紹は楊堅の族人であり、楊尚希は隋の宗室であり、これらも北族系人物が弘農楊氏を冒称したものと考えられる。}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[宇和川哲也]]|date=1984-12|title=西魏・北周の胡姓賜与|newspaper=人文論究|publisher=[[関西学院大学]]|url=http://hdl.handle.net/10236/5227|page=68|quote=楊忠・楊紹・楊尚希は北族系人物と考えられるので第四等級漢族に分類した。}}</ref>、[[伊達宗義]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[伊達宗義]]|date=1998-04|title=民族性から見た日本と中国|series=海外事情|publisher=[[拓殖大学海外事情研究所]]|isbn=|page=80|quote=秦王朝のあとを受けた漢王朝は漢民族でありましたが、後漢のあとの五胡十六国は異民族でありますし、隋も唐も異民族の血が濃厚に入っております。}}</ref>、[[小林道憲]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[小林道憲]]|date=2006-02-01|title=文明の交流史観|series=MINERVA歴史・文化ライブラリー|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|ISBN=978-4623045136|page=32|quote=中国大陸を再統一した隋の楊堅は、この北周を乗っ取って出てきたのだが、楊堅も、もとをただせば、鮮卑の出身であった。隋による統一まで、華北は、約三〇〇年、騎馬民族の征服王朝に支配されていたことになる。}}</ref>、向井佑介<ref>{{Cite journal|和書 |author=向井佑介|title=學界展望 北魏の考古資料と鮮卑の漢化|journal=東洋史研究|ISSN=03869059|publisher=東洋史研究会|year=2009|month=dec|volume=68|issue=3|pages=516-528|naid=40016974934|doi=10.14989/167620}}</ref>、[[梅原猛]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[梅原猛]]|date=2001-07-25|title=日本冒険(下)|series=梅原猛著作集8|publisher=[[小学館]]|isbn=4096771082|page=326|quote=少なくとも漢以後の中国は、遊牧民の絶えざる侵入の歴史であるが、漢の前のあの「秦」「周」以後の分裂した中国を一つの国家に統一した秦もまた、その位置からいっても、遊牧民の血を多分にもった民族であったと考えられる。とすれば、中国の歴史は、北方からやってきた胡族の国家であった。その多くの胡族の国家の中で、鮮卑族の王朝「北魏」が台頭し、その北魏を倒した「隋」が二百年分裂した南北朝を統一したが、隋もまた鮮卑族の血を引く王朝であった。隋を滅ぽした「唐」も、自ら漢族と名告ったが、最近の研究では、北魏や隋と同じく、やはり鮮卑族の血を引いているといわれている。}}</ref>、[[渡部昇一]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[渡部昇一]]|date=2015-07-28|title=戦後七十年の真実|series=扶桑社BOOKS|publisher=[[扶桑社]]|ISBN=978-4594081898|page=57|quote=その後、五胡十六国という乱世の時代を経て隋が統一するのですが、隋の民族は孔子の時代に鮮卑と呼ばれた異民族でした。つまり、この時点ですでに周の時代とは切れてしまっているのです。その後も蒙古族の元や満州族の清が興ったように、民族が入り乱れて次々に王朝をつくってきたのが中国の歴史なのです。}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[渡部昇一]]|date=2018-04-15|title=平成後を生きる日本人へ|series= |publisher=[[扶桑社]]|ISBN=978-4594079550|page=73|quote=そして再び統一王朝ができたのが隋なんです。これは、聖徳太子の頃です。隋の民族はどういう民族かといいますと、鮮卑といった北方民族なんです。もう既に隋の時代から、全然、別の民族が王朝を作ってるわけです。}}</ref>、[[斉藤茂雄]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[斉藤茂雄]]|date=2016-05-19|title=古代トルコ系遊牧民の広域秩序|series=アステイオン (84)|publisher=[[CCCメディアハウス]]|ISBN=4484162164|page=114|quote=当時の中国は、四世紀の五胡十六国時代に北中国に侵入した遊牧民の中から鮮卑が力を握り、もともと北中国にいた漢人と婚姻結合しつつ北魏・北周・北斉・隋・唐などの王朝を次々と立てていった。}}</ref>、[[塚本靑史]]<ref name="塚本靑史">{{Cite book|和書|author=[[塚本靑史]]|date=2010-07-16|title=四字熟語で愉しむ中国史|series=[[PHP新書]]|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=4569779565|page=141-142|quote=ところで、煬帝と李淵は、武川鎮軍閥出身だった母親同士(鮮卑系の独孤氏)が姉妹である。つまり、彼らは従兄弟(李淵が年長)の関係だ。また、それぞれ楊氏と李氏を姓としているが、もとは普六茹氏と大野氏であったと言われ、漢化した鮮卑系と思しい。それは、煬帝が父の文帝の姫妾(陳氏)を、高宗(李治)が父の太宗(李世民)の姫妾の武照(後の則天武后)を、自らの後宮に入れたりするところに見られる。このレビラト婚は、明らかに遊牧民族の風習であるからだ。}}</ref>、[[村山秀太郎]]<ref>{{Cite book |和書|author=[[村山秀太郎]]|date=2016-06-15|title=東大の世界史ワークブック|publisher=[[かんき出版]]|ISBN=4761271817|page=222|quote=漢人は柔然を蠕と呼んで蔑視しました。鮮卑族の北魏はその柔然対策として、六鎮という軍団を国境警備隊として配置しました。この六鎮の乱により、北魏は西魏と東魏に分かれました。西魏は宇文泰という人がつくりましたが、この宇文泰の直接の家来であったと言われるのが楊氏・李氏、これらが隋(581年-618年)と唐(618年-907年)をつくったのです。ですから隋や唐というのは間違いなく、鮮卑系の王朝、あるいは胡人の王朝であると言えます。}}</ref>、[[古田博司]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[古田博司]]|date=2003-08-01|title=東アジア・イデオロギーを超えて|series=|publisher=[[新書館]]|ISBN=978-4403230974|page=22|quote=北狄の鮮卑族の王朝が次々と交替した。北魏、東魏、西魏、北斉、北周、隋、唐がそれであり、唐の太宗も鮮卑族であった。}}</ref>、[[宇山卓栄]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[宇山卓栄]]|title=「民族」で読み解く世界史|publisher=[[日本実業出版社]]|date=2018-01-25|isbn=4534055587|page=44-45|quote=隋の建国者の楊氏も唐の建国者の李氏も、北魏と同じ鮮卑族というモンゴル人の出身とされています。隋や唐という中国を代表する王朝が漢人の王朝ではないということに対し、中国人史家のなかにはこれを否定する見解をもつ人もいるようですが、日本の中国史家の宮崎市定氏が隋・唐が鮮卑系であるとの見解を戦時中に発表して以降、この見解が世界の学界の定説となっています。高校の世界史教科書でも、この見解を取り上げています。そうすると、中国の主要統一王朝『秦→漢→晋→隋→唐→宋→元→明→清』のうち、いわゆる漢人がつくった統一王朝は秦、漢、晋、明の4つしかありません。中国はその歴史上、長期にわたり、異民族王朝によって支配されていたのです。}}</ref>、[[上田雄]]<ref name="上田雄"/>、[[孫栄健]]<ref name="上田雄">{{Cite book|和書|author=[[上田雄]]・[[孫栄健]]|date=1990-02-01|title=日本渤海交渉史|series=|publisher=[[六興出版]]|isbn=978-4845381067 |page=30|quote=乱を繰り返してきた中国大陸が、非漢族系の鮮卑人王朝である隋帝国によってついに統一される。この中国における統一帝国、それも戦闘的な北方騎馬民族型征服王朝の出現は、朝鮮三国や倭国に、深刻な政治的地鳴りとなって押し寄せる。}}</ref>などが鮮卑説を支持している。
 
日本学界以外では、[[大韓民国|韓国政府]]の[[行政機関]]である[[韓国コンテンツ振興院]]の「楊堅」の項目には、「鮮卑族または鮮卑族との混血出身と推定される」と記述しており<ref>{{Cite book|和書|author=|date=|title=수 문제|series=|publisher=[[韓国コンテンツ振興院]]|isbn=|page=|accessdate=2021-09-20|url=https://www.culturecontent.com/content/contentView.do?search_div=CP_THE&search_div_id=CP_THE003&cp_code=cp0607&index_id=cp06070111&content_id=cp060701110001&search_left_menu=|quote=이름은 양견(楊堅)이고, 묘호는 고조이다. 후한(後漢)의 학자인 양진(楊震)의 자손으로, 서위(西魏) 12대 장군의 한 사람인 수국공(隋國公) 양충(楊忠)의 아들이다. 선비족이거나 선비족과의 혼혈인 무장집안 출신으로 추정된다.}}</ref>、[[大韓民国|韓国]]の代表的な[[百科事典]]である[[斗山世界大百科事典]]などの各種辞典の「楊堅」の項目には、「弘農華陰人と名乗るが、実際には漢人ではなく鮮卑族、または鮮卑族との混血武将家出身である」 と記述している<ref>{{Cite book|和書|author= |url=https://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=101013000746409|title=문제 文帝,541~604|publisher=[[斗山世界大百科事典]]|accessdate=2021-09-20|quote=성명 양견(楊堅). 묘호 고조(高祖). 후한의 학자 ·정치가 양진(楊震)의 자손으로 서위(西魏) 12대 장군의 한 사람인 수국공(隋國公) 양충(楊忠)의 아들. 홍농화음(弘農華陰:陝西省 渭南縣) 사람이라고 자칭하나, 사실은 한인(漢人)이 아니고 선비족(鮮卑族)이거나 선비족과의 혼혈인 무장(武將)집안 출신인 듯하다.}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=임종욱|date=2010-01|title=중국역대 인명사전|series=|publisher=이회문화사|isbn=9788981074456|page=|accessdate=2021-09-20|url=https://terms.naver.com/entry.naver?docId=1703801&cid=62063&categoryId=62063|quote=수나라의 초대 황제(재위, 581-604). 이름은 양견(楊堅)이고, 묘호는 고조(高祖)다. 후한의 학자 양진(楊震)의 자손으로, 수국공(隋國公) 양충(楊忠)의 아들이다. 홍농(弘農) 화음(華陰) 사람이라 하는데, 한인(漢人)은 아니고 선비족이거나 선비족과의 혼혈인 무장 집안 출신인 것으로 보인다.}}</ref>。楊氏の鮮卑説の根拠として以下のものが挙げられる。
 
* [[鮮卑]]の[[宇文泰]]が自分と同じ立場の鮮卑人の[[武川鎮軍閥]]関係者から[[八柱国]]と十二大将軍を置いたが、十二大将軍の一人が陳留郡開国公[[楊忠]]([[楊堅]]の父)であること([[唐]]の初代皇帝[[李淵]]は八柱国の一人の隴西郡開国公[[李虎]]の孫)<ref>{{Cite book|和書|author=[[岡田英弘]]|date=2005-09-16|title=だれが中国をつくったか|series=[[PHP新書]]|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569646190|page=70|url=https://books.google.com/books?id=qn1xBAAAQBAJ&pg=PT70&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false}}</ref>
* [[煬帝]]が父の[[楊堅|文帝]]の姫妾([[宣華夫人陳氏|陳氏]])を[[後宮]]に入れるなど、[[遊牧民]]の[[風習]]であり、[[儒教]]では[[不義]]にあたる[[レビラト婚]]を行っていること<ref name="塚本靑史"/>
* 楊氏は[[楊震]]から出たとされるが真偽はわからないこと<ref>{{Cite book|和書|author=[[堀井裕之]]|title=隋代弘農楊氏の研究 : 隋唐政権形成期の「門閥」|series=東洋文化研究|volume=19|publisher=[[学習院大学東洋文化研究所]]|url=http://hdl.handle.net/10959/00004298|page=401|date=2017-03}}</ref><ref name="谷川道雄"/><ref name="守屋洋">{{Cite book|和書|author=[[守屋洋]]|date=2006-11-02|title=中国皇帝列伝|series=[[PHP文庫]]|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569667300|page=109}}</ref>
* 楊氏が[[五胡十六国時代]]から[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]に、数代にわたり鮮卑の国家[[南北朝時代 (中国)|北朝]]の[[官人]]を務めたことは事実であること<ref name="守屋洋"/>
* 楊堅の祖先は六代の間、北朝の非漢族諸王朝のもとで官人となり、支配階級である鮮卑の名門一族と[[通婚]]を行っていること<ref name="アーサー・F・ライト"/>
* 楊堅の祖先は六代の間、北朝の非漢族諸王朝のもとで官人となり、支配階級である鮮卑の名門一族と[[通婚]]を行っていること<ref name="アーサー・F・ライト">{{Cite book|和書|author=[[アーサー・F・ライト]]|title=隋代史|series=|date=1982-11|publisher=[[法律文化社]]|isbn=|page=64|quote=隋朝の創業者である楊堅は、黄河平原の西端近く(弘農郡華陰県=陝西省渭南地区華陰県)に本貫のある古い名族に生まれた。その祖先は六代の間、北朝の非漢族諸王朝のもとで官人となり、支配階級である[[テュルク系民族|テュルク]]・[[モンゴル系民族|モンゴル]](鮮卑)エリートの一族との通婚によってその権力と地位を維持してきた。楊堅の父である楊忠は、最初、北魏に仕えていたが、五三四年、北魏が西魏と東魏に分裂したとき、楊忠は西魏の創業者である宇文泰に忠節を尽くす道を選んだ。楊忠は、文武にわたる功績により、高位で酬いられ、隋公(隋国公)に封ぜられた。また、五世紀末年の徹底的な漢化政策において漢姓に変更されたテュルク・モンゴル(鮮卑)の姓を宇文泰が、その部下に対して復活したとき(虜姓再行)、彼のもとで軍功を立てた漢姓の者に漢姓と同じ意味の(鮮卑)の姓を授けた。楊忠は、[[モンゴル語族|モンゴル諸語]]で柳の一種(楊)を意味するブルスカンの転じた普六茹という姓を授けられた。}}</ref>
* 楊堅の皇后の[[独孤伽羅]]は鮮卑族の有力貴族の[[独孤部|独孤氏]]であること<ref>{{Cite book|和書|author=[[浅野典夫]]|authorlink=|date=2012-05-22|title=「なぜ?」がわかる世界史|series=|publisher=[[学研教育出版]]|isbn=978-4053033802|page=237|url=https://books.google.com/books?id=g4d1CwAAQBAJ&pg=PA237&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false}}</ref>
* 南北朝時代に[[華北]]を支配した北朝は鮮卑人を支配層とする王朝であり、隋も北朝の系統から成立したこと<ref>{{Cite book|和書|author=[[浅野典夫]]|authorlink=|date=2016-09-08|title=今を読み解く世界史講義|series=|publisher=[[新星出版社]]|isbn=978-4405120051|page=78|url=https://books.google.com/books?id=I8KyDQAAQBAJ&pg=PA78&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false}}</ref>
* [[楊忠]]が目立った活躍がないにもかかわらず創成期の十二大将軍の一人に選ばれたこと<ref name="宇和川哲也"/>
* [[宇文|宇文氏]]・[[独孤|独孤氏]]と姻戚関係を結んでいたことから、宇文氏と近い北族系人物であると考えられること<ref name="宇和川哲也"/>
* [[7世紀]]はじめの[[東ローマ帝国]]の[[歴史家]]である[[テオフィラクトス・シモカテス]]は、[[581年]]の隋の統一を「タウガス Taugas の統一」と表現している<ref name="廣川みどり"/>
* 『[[隋書]]』高祖本記は「漢の太尉楊震の八世の孫の楊鉉、燕に仕えて北平の太守となる。楊鉉、楊元寿を生む。後漢の代、武川鎮の司馬となる。子孫因よりて焉に家す」とあり、隋室楊氏の世系を楊震から楊鉉まで8代としている。一方、『{{仮リンク|新唐書宰相世系表|zh|新唐書宰相世系表}}』は、隋室楊氏の世系を楊震から楊鉉まで19代としており、大きく矛盾している<ref name="竹田竜児"/>。[[清|清代]]の学者{{仮リンク|沈炳震|zh|沈炳震}}は『唐書宰相世系表訂偽』において、隋室楊氏の系譜に疑問を呈しており<ref>{{Cite news|author=[[呂春盛]]|date=2000-12|title=關於楊堅興起背景的考察|publisher=[[国家図書館]]|newspaper=漢學研究 第18 卷第2期|url=http://ccs.ncl.edu.tw/chinese_studies_18_2/18_2_07.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210910055622/http://ccs.ncl.edu.tw/chinese_studies_18_2/18_2_07.pdf|format=PDF|archivedate=2021-09-10|page=171-172}}</ref>、[[清|清代]]の学者[[万斯同]]も『{{仮リンク|新唐書宰相世系表|zh|新唐書宰相世系表}}』は漢の[[霊帝 (漢)|霊帝]]から[[前燕]]に至る170年ばかりの間に17代を数えており、如何にも不合理であると指摘している<ref name="竹田竜児">{{Cite news|author=[[竹田竜児]]|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-19581000-0617|title=門閥としての弘農楊氏についての一考察|newspaper=史学 31|publisher=[[三田史学会]]|date=1958-10|page=638-641}}</ref>
 
一方、鮮卑か否かを断定しない意見もあり、[[守屋洋]]は「楊氏はもと胡族(鮮卑)から出たのではないかと言われているが、このほうがむしろ信憑性が高いかもしれない」と述べており<ref>{{Cite book|和書|author=[[守屋洋]]|title=中国皇帝列伝|series=[[PHP文庫]]|date=2006-11-02|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569667300|page=109}}</ref>、[[陳舜臣]]は「隋の文帝楊堅は、後漢の太尉で硬骨をもって知られた楊震の末裔と称していますが、鮮卑族の血が濃いという説もあります。祖父楊元寿が北魏の六鎮のなかの武川鎮の司令官でしたから、鮮卑説も根拠がないわけではありません。[[北魏]]が東西に分裂したとき、彼の父楊忠は[[西魏]]の将軍になりました。西魏とそれにかわった北周は、府兵を指揮する軍人貴族として、『八柱国』『十二将軍』を設けたことは前述したとおりです。文帝楊堅の時代になって、将軍から柱国に昇進したのですから、[[始皇帝|秦の始皇帝]]にくらべて、隋の文帝の家系的背景はきわめて薄弱であったといわねばなりません」と述べている<ref>{{Cite book|和書|author=[[陳舜臣]]|url=https://www.google.co.jp/books/edition/中国五千年_下/ybUoEAAAQBAJ?hl=ja&gbpv=1&pg=PT5&printsec=frontcover|date=1989-11-07|title=中国五千年(下) |series=講談社文庫 |publisher=[[講談社]] |ISBN=4061845624|page=5}}</ref>。
 
[[貝塚茂樹]]は、「隋王朝の開祖文帝、すなわち楊堅の父にあたる[[楊忠]]は北周開国の功臣の一人で、妻は鮮卑の貴族独孤氏の女である。華北北朝の漢族官僚と異民族との[[ハーフ (混血)|混血児]]である楊堅が、華北における漢族と異族との融合の結果誕生した統一王朝の君主となったのは決して偶然ではなかった」と述べており、漢族と鮮卑の混血としている<ref>{{Cite book|和書|author=[[貝塚茂樹]]|date=1976|title=中国の歴史 |series=貝塚茂樹著作集〈第8巻〉|publisher=[[芦書房]]|ISBN=|page=205}}</ref>。楊堅の母は、[[山東省|山東]]の[[漢民族|漢人]]{{仮リンク|寒族|zh|寒族}}の{{仮リンク|呂苦桃|zh|呂苦桃|label=呂氏}}というが、素性は明らかでなく、楊堅即位後にそのおいと称する{{仮リンク|呂永吉|zh|吕永吉}}なるものが現れているが怪しく、[[北魏]]のとき、呂氏と改めた鮮卑族の叱呂氏という指摘がある<ref>{{Cite book|和書|author=[[布目潮渢]]|date=2018-06-11|title=隋の煬帝と唐の太宗 暴君と明君、その虚実を探る|series=新・人と歴史 拡大版 27|publisher=[[清水書院]]|isbn=4389441272|page=37}}</ref>。
 
[[常石茂]]と[[駒田信二]]は、「楊氏は漢人だったが、常に鮮卑と婚姻を通じていたので、楊堅は鮮卑語で普六茹堅と呼ばれていた」と述べており、漢族と鮮卑の混血としている<ref>{{Cite book|和書|author=[[常石茂]]・[[駒田信二]]|date=1997-07-01|title=秋風五丈原の巻|series=新十八史略〈4〉|publisher=[[河出書房新社]]|ISBN=4309609945|page=248}}</ref>。
 
[[宮崎市定]]は、「[[宇文部|宇文氏]]の[[北周]]は鮮卑であり、楊氏の隋は漢人であると区別することがよく行われるが、これほど無意味なことはない。当時においては既に宇文氏も鮮卑というの要を認めぬほどに[[中原|中原化]]し、その朝廷には[[漢字]]を用い、中原語を話していた。一方楊氏は姓こそ中原の姓であるが、その[[家系|血統]]において、その[[風習]]において、先朝の宇文氏とどれほどの差違があろうか。宇文氏も楊氏も更生せる新社会における同性質なる一分子たるに過ぎなかった」と述べている<ref>{{Cite book|和書|author=[[宮崎市定]]|date=1976|title=宮崎市定アジア史論考〈上巻〉概説論|series=|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=|page=83}}</ref>。
 
従来、隋・唐に関する歴史教科書の記述は、[[魏晋南北朝時代]]の分裂を漢人国家が再統一したかのごとく描かれてきたが、近年は、北魏にはじまる[[南北朝時代 (中国)|北朝]]から隋・唐の諸王朝を「拓跋国家」という言葉を使用、一括して扱う[[帝国書院]]の歴史教科書などがあらわれている<ref name="廣川みどり">{{Cite news|author=廣川みどり|date=|title=トルコ族の拡大と隋唐帝国|publisher=[[帝国書院]]|newspaper=|url=https://www.teikokushoin.co.jp/journals/history_world/pdf/200101/history_world200101-07-08.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211228001025/https://www.teikokushoin.co.jp/journals/history_world/pdf/200101/history_world200101-07-08.pdf|format=PDF|archivedate=2021-12-28|page=8}}</ref>。「拓跋国家」とは、北魏から唐にいたる過程で、[[遊牧民|遊牧]]と[[農耕]]、鮮卑諸部族と他諸部族、漢人と非漢人などが共存・混沌としていた地域を拓跋出身の支配層が中核となり、非漢人諸部族や漢人を取り込み、[[軍事力]]によって統合した政治連合体をあらわす<ref name="廣川みどり"/>。2017年度から使用されている[[清水書院]]の[[教科書|歴史教科書]]『高等学校 世界史A』は、「[[南北朝時代 (中国)|北朝]]では、534年に北魏が分裂した後も鮮卑系の王朝が興亡し、鮮卑系の楊堅が建国した隋は、北朝だけでなく[[南北朝時代 (中国)|南朝]]の[[陳 (南朝)|陳]]も征服して、589年中国を統一した」と書かれている<ref>{{Cite news|author=|url=http://www.shimizushoin.co.jp/support/contents/tabid/112/Default.aspx|title=高等学校 世界史A 新訂版|newspaper=|publisher=[[清水書院]]|date=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200803120158/http://www.shimizushoin.co.jp/support/contents/tabid/112/Default.aspx|archivedate=2020-08-03}}</ref>。
 
== 歴史 ==
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煬帝の施政による度重なる負担に民衆は耐えかね、遂に第2次高句麗遠征からの撤兵の途中にかつての煬帝の側近[[楊素]]の息子[[楊玄感]]が[[黎陽]]で反乱を起こして洛陽を攻撃した<ref name="新十八史略271">駒田『新十八史略4』、P271</ref>。これは煬帝が派遣した隋軍により鎮圧されて楊玄感は敗死したが、この反乱を契機にして中国全土で反乱が起こり出した<ref name="新十八史略271"/>。
 
これまで従属していた突厥は隋の衰退を見て再び北方で暴れだしたので、煬帝は自ら軍を率いて北方に向かうも突厥軍に敗れて洛陽に撤退<ref name="新十八史略271"/>。この敗戦が更なる引き金となり、[[616年]]には反乱が各地でピーク状態に達した<ref name="新十八史略280">駒田『新十八史略4』、P280</ref>。やがて反乱軍の頭領は各地で群雄として割拠し、楊玄感の参謀を務めていた[[李密 (隋)|李密]](北周八柱国の[[李弼]]の孫にあたり、[[武川鎮軍閥|関隴貴族集団]]の中でも上位の1人。楊玄感の敗死後に、洛口倉という隋の大食料集積基地を手に入れることに成功し多数の民衆を集めた)、この李密と激しく争っていた[[西域]]出身で隋の将軍を務めていた[[王世充]]、高句麗遠征軍から脱走し、同じ脱走兵たちを引き連れて河北に勢力を張った[[竇建徳]]、そして隋の太原留守であった[[李淵]](後の[[唐]]の高祖)などが独立勢力となった([[隋末唐初の群雄の一覧]])。
 
この反乱に対して煬帝は最初は鎮圧に努めたが、その処理が反徒の殺戮政策という過酷なものだったため、却って逆効果を招いた<ref name="新十八史略280"/>。激しくなる反乱の中、もはや隋軍では対処し切れなくなり、煬帝は[[揚州 (江蘇省)|江都]]に行幸してここに留まり、反乱鎮圧の指揮を執った。しかし煬帝が南方に行幸したことは実質北方を放棄して逃走したも同じであり、北方の反乱はますます激しくなり、遂に李淵により首都大興城までもが落とされてしまう。大興城を掌握した李淵は首都に不在であった煬帝の退位を宣言し(表面上は煬帝を尊んで太上皇としている)、煬帝の孫の'''[[恭帝侑|楊侑]](恭帝侑)'''を即位させた<ref name="新十八史略273">駒田『新十八史略4』、P273</ref>。
 
このような事態にも関わらず、江南に腰を据えた煬帝は次第に酒と宴会に溺れて国政を省みなくなり、遂には諫言や提言する臣下に対して殺戮で臨むようになって全く民心を失った<ref name="新十八史略273"/>。だが、煬帝に従って江都に赴いていた隋軍は多くが北方の出身者であり<ref name="新十八史略273"/>。重臣の[[宇文化及]]はこうした情勢の中でついに煬帝を見限り、反煬帝勢力を糾合して[[618年]]に謀反を起こし<ref name="新十八史略274">駒田『新十八史略4』、P274</ref>、煬帝を縊り殺した<ref name="新十八史略274"/>。こうして政権を奪取した宇文化及は、煬帝の甥(煬帝の弟の秦孝王[[楊俊]]の子)の秦王'''[[楊浩]]'''を皇帝に擁立し、江都の隋軍を率いて北へと帰還しようとしたが、[[王世充]]・李淵・[[李密]]らの勢力に阻まれて大興城を恢復することはできなかった。そこで宇文化及は皇帝楊浩を毒殺し、国号を'''許'''として自ら皇帝に即位する。しかし宇文化及は天寿2年(619年)に竇建徳との決戦に大敗して殺害され、ここに許の政権は崩壊した。
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なお、煬帝の孫の一人である[[楊政道]](斉王[[楊カン|楊暕]]の遺腹の子)のみ、唯一生き延びた。彼は突厥の[[処羅可汗]]の庇護を受けたが、630年、突厥が滅亡すると、楊政道は唐に帰順して、官職を賜った。楊政道には楊崇礼(隆礼)という子がおり、煬帝の曾孫である。楊崇礼の子女が、楊慎余・[[楊慎矜]]・楊慎名の三兄弟で煬帝の玄孫にあたる。特に次男の楊慎矜が兄弟の中でも優秀であったが、[[747年]]に隋の復興を企ていると讒言があり、自殺に追い込まれた。妻子は[[嶺南 (中国)|嶺南]]に流刑に処された。楊慎余と楊慎名も自殺に追い込まれている。
 
他に煬帝の皇女が唐の第2代皇帝[[李世民]]の妃の1人となり、[[李恪 (呉王)|李恪]]・[[李愔]]の2男を儲けた。李恪の子孫は少なくとも昆孫の代、李愔の子孫は少なくとも孫の代まで存続し、女系ではあるが隋皇族の血筋はしばらくは保たれている。
 
== 政治 ==
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== 軍事 ==
{{節スタブ}}
 
=== 注釈sock my ass ===
 
== 経済 ==
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#[[恭帝侑]](楊侑、在位[[617年]] - 618年) 煬帝の孫。李淵に擁立される。
:* [[楊浩|秦王]](楊浩、在位618年) 煬帝の弟の秦孝王楊俊の子。宇文化及に擁立されるが、正史では歴代皇帝に数えられない。
:* [[恭帝侗|皇泰主]](楊侗、在位618年 - [[619年]]) 煬帝の孫で、楊侑の兄。王世充に擁立されるが、正史では歴代皇帝に数えられない。
 
=== 皇帝略歴 ===
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
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* [[川本芳昭]]『中国の歴史05、中華の崩壊と拡大。魏晋南北朝』([[講談社]]、[[2005年]][[2月]])
* [[駒田信二]]ほか『新十八史略4』([[河出書房]]新社、[[1997年]][[7月]])
* [[谷川道雄]]  『世界帝国の形成』新書東洋史2 中国の歴史2、講談社〈講談社現代新書〉452 1977年
* [[布目潮渢]]・[[栗原益男]]  『隋唐帝国』 講談社〈講談社学術文庫〉1997年
* 『世界史大系 中国史2 三国〜唐』 山川出版社、1996年  ISBN 4-634-46160-9
* [[礪波護]]  『隋唐帝国と古代朝鮮』 中央公論社、1997年  ISBN 4-12-403406-7
* [[金子修一]]  『隋唐の国際秩序と東アジア』 名著刊行会 2001年
* [[氣賀澤保規]]  『絢爛たる世界帝国  : 隋唐時代』(『中国の歴史』06)講談社 2005年、ISBN 4-06-274056-7
* [[外山軍治]]「中国文明の歴史〈5〉隋唐世界帝国 (中公文庫)」(中央公論新社、2000年)  ISBN 978-4122036727
* 稲畑耕一郎監修「図説中国文明史6」(創元社 、2006年)  ISBN 978-4422202570
* [[宮崎市定]]「大唐帝国―中国の中世 (中公文庫)」(中央公論社、1998年)  ISBN 978-4122015463
 
== 関連項目 ==
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*{{Wayback|url=http://www.geocities.jp/mapqin/06/590.html |title=隋代形勢図 (590年) |date=20190330043122}}
*{{Wayback|url=http://www.geocities.jp/nafricap/07/605.html |title=隋代形勢図 (605年) |date=20190331143305}}
* {{Kotobank}}
* {{Kotobank|隋の時代(年表)}}
 
{{先代次代|[[中国の歴史]]||[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]|[[唐]]}}