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Wig tQ. (会話 | 投稿記録)
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== 歴史 ==
創業者[[吉川半七]]は、[[天保]]10年([[1839年]])に[[近江国]]([[滋賀県]])で生まれ、[[江戸]][[日本橋蛎殻町]]の書肆若林屋喜兵衛に奉公。安政4年([[1857年]])19歳で独立、自営を許されて書物の仲買を始める。[[文久]]3年([[1863年]])には長姉の婚家で[[麹町]]の貸本屋近江屋を継ぎ、近江屋吉川半七を名乗った。[[元治]]元年([[1864年]])、江戸・京坂を往来して書籍の交易を行う。
 
明治3年([[1870年]])[[東京府]]京橋南伝馬町(現在の[[中央区 (東京都)|中央区]][[京橋 (東京都中央区)|京橋]]一丁目)の表通りに新店舗(吉川書房)を開く。扱った書物は、新時代の要望に応え、和漢書のほか、[[福沢諭吉]]・[[中村正直]]等の西洋文化の翻訳類も数多く取り揃え、とくに上方版の常備販売は他店の追随を許さぬものがあった。明治5年([[1872年]])には、吉川書房の階上に「貸本屋」の大革新を試み、有料(1時間半銭)の書物展覧所を設け、広く内外の書籍を集めて公開し「来読貸観所」と称した。[[大槻如電]]は「日本における図書館の濫觴なり」と称賛している(明治9年11月火災により閉鎖する)。明治10年([[1877年]])頃より出版を兼業し、はじめ「文玉圃」「近江屋」等の号も用いたが、多くは「吉川半七」の個人名をもって発行所とした。明治12年([[1879年]])には内閣書記官岡三橋(守節・書家)の推挙により[[宮内省]][[御用書肆]]となり、『萬葉集古義』『幼学綱要』『婦女鑑』等、多数の宮内省蔵版の出版を引き受け、明治20年(1887年)頃より、時代の趨勢に鑑み出版に専業し、もっぱら学術書の刊行に従事する。