「D.B.クーパー事件」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
160行目:
1971年から2016年の間、FBIは千人を超える被疑者を扱ってきた。その中には売名屋と見なされている人物や、死に際に犯人であると告白した人物も含まれる<ref name="Pasternak-USNWR2000-07-24" />。しかし、被疑者たちが犯人であることを示す証拠はせいぜい状況証拠しか見つからず、クーパー事件と被疑者を結び付けるものはどれも推測や根拠の薄い告発でしかない。
 
===ケネス・クリスティアチャンセン===
2003年、[[ミネソタ州]]の住民であるライル・クリスティアチャンセン ({{lang-en-short|Lyle Christiansen|links=no}}) はテレビでクーパー事件についてのドキュメンタリー番組を見て、自分の死んだ兄弟のケネス・クリスティアチャンセン ({{lang-en-short|Kenneth Christiansen|links=no}}) がクーパーであることに気がついた<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。最初はFBIにケネスが真犯人であると信じてもらおうと徒労を繰り返し、次に著述家であり映画監督でもある[[ノーラ・エフロン]]にもかけ合った。エフロンはクーパー事件の映画を制作したいと考えていたが、それでもこれも徒労に終わった。その後、ライルは[[ニューヨーク]]に住む[[探偵]]に接触した。2010年、刑事のスキップ・ポーティアス ({{lang-en-short|Skipp Porteous|links=no}}) がクリスティアチャンセンを犯人と見なす書籍を著した{{sfn|Porteous|Blevins|2010}}。翌年、[[ヒストリー (TVチャンネル)|ヒストリー]]の{{仮リンク|Brad Meltzer's Decoded|en|Brad Meltzer's Decoded|label=''Brad Meltzer's Decoded''}}というシリーズ番組のエピソードでも、クリスティアチャンセンとクーパー事件を結び付ける状況証拠がかいつまんで解説された<ref name="BradMeltzer">{{cite episode|series={{仮リンク|Brad Meltzer's Decoded|en|Brad Meltzer's Decoded}}|title=D.B. Cooper|network=[[ヒストリー (TVチャンネル)|History]]|airdate=January 6, 2011|season=1|number=6}}</ref>。
 
クリスティアチャンセンは1944年に陸軍に入隊し、空挺兵の訓練を受けた。1945年に配置されたときには[[第二次世界大戦]]は終結していたが、1940年代後半に[[連合国軍占領下の日本|占領軍]]の元で[[日本]]に配置されていた間、時折パラシュートの訓練を受けていた。陸軍を退役すると、1954年に[[ポリネシア]]で整備士としてノースウエスト・オリエント航空に入社した。その後、シアトルを拠点に客室乗務員、次いでパーサーを経験した<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。クーパー事件のとき、クリスティアンセンは45歳だったが、目撃者の証言と比べると、背は低く (173センチメートル)、体重も軽く (68キログラム)、肌の色も白めだった<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。クリスティアチャンセンはクーパーと同じく愛煙家で、特にバーボンが好きだった。クーパーもバーボンを好んでいた。クリスティアンセンは[[左利き]]だった。クーパーのネクタイの証拠写真では、ネクタイ留めは左側から取り付けられていた。このことから、ネクタイ留めを取り付けた人物、つまりクーパーは左利きだったことを示唆している<ref name="FBI-Redux" />。客室乗務員のシャフナーは記者に対し、クリスティアチャンセンの写真は、これまで見せられた他の被疑者の写真よりも、記憶の中のクーパーの外見と似ていると述べている。しかし、クリスティアチャンセンがクーパーであると断定することはできなかった<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。なお、クーパーと最も接触した人物であるマックローは、報道機関のインタビューを一切受諾していない<ref>{{cite news|title=Tina Mucklow, D.B. Cooper-hijacking flight attendant found; Woman was go-between for Cooper, crew|author=McShane, Larry|date=September 2, 2011|url=http://www.nydailynews.com/news/national/tina-mucklow-b-cooper-hijacking-flight-attendant-found-woman-go-between-cooper-crew-article-1.953428|___location=New York|work=Daily News}}</ref>。
 
クリスティアチャンセンはクーパー事件から数ヵ月後に家を現金で購入したと言われている。クリスティアンセンは1994年に[[悪性腫瘍|癌]]で死の縁に陥るが、その際にライルに向けて、ライルが知っておくべきことがあるが、伝えることができないと語ったという。ライルはクリスティアチャンセンにその話をするように迫ったことは全くなかったと述べた<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。クリスティアチャンセンの死後、遺族たちは金貨や貴重な切手のコレクションを発見した。銀行口座には20万ドル以上の金が残されていた。ノースウエスト・オリエント航空に関するニュース記事の切り抜きのフォルダも発見した。切り抜きはクリスティアチャンセンがノースウエスト・オリエント航空に雇われた1950年代頃から始まり、クーパー事件の直前で終わっていた。クーパー事件がノースウエスト・オリエント航空の歴史上、比べるまでもなく最重要な出来事だったのにもかかわらずである。クリスティアンセンは1971年以降も長期間、ノースウエスト・オリエント航空で非常勤の仕事を続けていた。しかし、それからノースウエスト・オリエント航空関係の記事の切り抜きをすることは一切なかったようだ<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。
 
インターネット上の団体の調査によると、後にクリスティアチャンセンはクーパー事件後に家を現金で買ったわけではないことが証明されたという。実際は住宅ローンを利用して17年かけて支払ったらしい。また、同調査によると、クリスティアチャンセンは1990年代中頃に1エーカー1万7千ドルの土地を20エーカーほど売却しており、死後に口座に残していた大量の金はそれに由来するという<ref>{{cite web|url=http://website.thedbcooperforum.com/Suspects/|title=Suspects|accessdate=April 20, 2019|publisher=|website=The D.B. Cooper Forum}}</ref>。
 
クリスティアチャンセン犯人説はポーティアスの著書や2011年のテレビのドキュメンタリーにより知名度を得たが、FBIはクリスティアチャンセンは被疑者とは考えられないという立場をとっている<ref name="new" /><ref name="CNN2011-08-01" />。FBIは、目撃者による外見の説明とあまり一致しないことや、クーパーのプロファイリングから推測されたスカイダイビングの腕前と比べるとクリスティアチャンセンはそれを上回る程度の専門的な技術を有していること、犯人であることを示す直接的な証拠が存在しないことを引き合いに出している<ref>{{cite news|title=F.B.I. rejects latest D.B. Cooper suspect|agency=Associated Press|last=|first=|date=October 26, 2007|url=http://www.seattlepi.com/local/337121_dbcooper27.html|access-date=March 11, 2008|work=Seattle Post-Intelligencer}}</ref>。
 
===ジャック・コフェルト===