「寛文近江・若狭地震」の版間の差分

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当時の被害の様子や余震を恐れる人々など当時の状況を詳しく記録した読み物として売り出された[[浅井了意]]の『かなめいし』(寛文2年8月から同年末までに成立)が、災害の社会像を伝える最初の資料地震誌である。上巻は京都での実況見分的に描写、中巻は京都以外の地震の災害の概要、下巻は日本地震の先例をあげる。<ref>知野泰明「近世の災害」/ 北原糸子編著 『日本災害史』 吉川弘文館 2006年 232-238ページ</ref>。
 
京の[[方広寺]]の[[京の大仏|大仏]]は1596年の[[慶長伏見地震]]でも倒壊するなど度々災難に見舞われていたが、本地震でも1612年に再建された銅製の大仏が破損した。大仏は木造で再建されることとなり、破損した旧大仏は解体された。大仏躯されたの銅材は、大仏再建費用捻出ため[[江戸幕府]]地金が寛文8年5月(1668年6月頃)から鋳造が始まったに売却され、[[寛永通宝]](文銭)材料の一部鋳造もなっ用いられたという説がある<ref name="mikami">三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年</ref>が、大仏の躯体を構成していた銅材の量から考えて、した寛永通宝を賄える量ではないとして、デマであるとされる([[寛永通宝#新寛永(文銭)|新寛永(文銭)]]項目も参照)。ただし大仏躯体を構成していた銅材はどう現存していったで、何らの形で再利用されたいう疑問点あり思われるが真相は不明である。ただ風説のように銅材が何らか貨幣鋳造形で原料に再利用された可能性として否定、寛文期の鋳銭の材料すべてを賄う量かった
 
強震は近江、若狭に加えて、[[山城国|山城]]、[[大和国|大和]]、[[河内国|河内]]、[[和泉国|和泉]]、[[摂津国|摂津]]、[[丹波国|丹波]]、[[美濃国|美濃]]、[[伊勢国|伊勢]]、[[駿河国|駿河]]、[[三河国|三河]]、[[信濃国|信濃]]と広範囲におよび、[[比良山地|比良岳]]付近で顕著であった。『慶延略紀』によれば二条城や[[大坂城]]も破損するほどの揺れであり、[[江戸]]でも小震であったとされ<ref name="Dainippon1940" />、[[福山 (城下町)|福山]]でも有感、『殿中日記』には「[[長崎市|長崎]]表も地震之由」とある。被害の全体では死者880あまり、潰家約4,500とされる<ref name="soran" />。