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[[1939年]](昭和14年)9月、[[阿部内閣]]で当初は[[厚生省|厚生]][[政務次官]]に内定していたものの、森田が土木建築業を経営していたため[[小原直]][[内務大臣 (日本)|内務大臣]]兼[[厚生省|厚生大臣]]が難色を示し、[[司法省 (日本)|司法]]政務次官に就任した<ref>[[#森田福市]]、178頁。</ref>。
[[1942年]](昭和17年)4月の[[第21回衆議院議員総選挙|第21回総選挙]]では[[大政翼賛会|翼賛政治体制協議会]]の非推薦候補として立候補して当選した<ref>[[#森田福市]]、201-212頁。</ref>。その後、興亜議員同盟に参加<ref>[[#森田福市]]、214頁。</ref>。[[東條内閣]]の倒閣運動に加わり、和平に向けての動きを支援した<ref>[[#森田福市]]、224-227頁。</ref>。1945年8月8日に開催予定の中国地区代議士会議の世話役を務めるため、8月4日に広島市に戻っていたが、[[広島市への原子爆弾投下|8月6日の原爆投下]]により、爆心から至近距離に位置する会社事務所の近く(理髪店で理髪中)で被爆死した<ref>[[#森田福市]]、5-11頁。</ref>。享年55。
広島への原爆投下によって、森田の他に現職の広島県選出代議士では[[古田喜三太]]、および元・島根県選出代議士で当時兵役に就いていた[[田中勝之助]]の計3名が被爆死しており、没後の9月4日、第88回帝国議会衆議院本会議はこの3名に弔辞を贈呈した<ref>[[宇吹暁]] 『ヒロシマ戦後史;被爆体験はどう受けとめられてきたか』 [[岩波書店]]、[[2014年]] ISBN 9784000245234、6-7頁。</ref>。
没後49年の[[1994年]]8月、出身地の[[神石高原町]]に「森田福市翁顕彰碑」が建立された。碑銘の揮毫は森田と選挙区を同じくしていた[[宮澤裕]]の子の[[宮澤喜一]]である<ref>広島ぶらり散歩「森田福市翁顕彰碑」(外部リンク)参照。</ref>。
== 人物 ==
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