「京の大仏」の版間の差分
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[[文禄]]5年[[閏月|閏]]7月13日([[1596年]][[9月5日]])に起きた[[慶長伏見地震]]により、[[開眼]]前の初代大仏は損壊した<ref name="河内(2008)112">[[#河内(2008)|河内(2008)]] p.112</ref><ref name="村山(2003)114">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.114</ref>。[[醍醐寺]]座主の[[義演]]が著した『義演准后日記』によると、大仏の胸が崩れ、左手が落ち、全身にひび割れが入ったという<ref name="河内(2008)112">[[#河内(2008)|河内(2008)]] p.112</ref><ref name="村山(2003)115">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.115</ref>。ただし大仏の光背は無傷で残ったという<ref name="河内(2008)113">[[#河内(2008)|河内(2008)]] p.113</ref>。工期短縮のために銅製ではなく、木造としたことが裏目に出た。秀吉は憤り、『義演准后日記』には「本尊御覧、早々崩しかえしのよし仰す (秀吉公が(損壊した)大仏を御覧になり、早く取り壊せと命じた)<ref name="河内(2008)115">[[#河内(2008)|河内(2008)]] p.115</ref>」と、宣教師ぺドウロ・ゴーメスの書簡には「自身の身すら守れぬ大仏が人びとを救えるはずもないとして、大仏を粉々になるまで砕いてしまえと命じた<ref name="河内(2008)116">[[#河内(2008)|河内(2008)]] p.116</ref>」と記録されている。また一説には、秀吉は怒りのあまり、大仏の眉間に矢を放ったと伝わる。このような態度を取った原因について、秀吉は大仏を信仰の対象としてではなく、自らの権力を誇示するための道具としか見なしていなかったためとする説もある<ref name="村山(2003)148">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.148</ref>。なお初代大仏殿は地震による損壊を免れた<ref name="河内(2008)113">[[#河内(2008)|河内(2008)]] p.113</ref><ref name="村山(2003)114">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.114</ref>。秀吉は、夢のお告げと称して、損壊した大仏に代わり、由緒ある信濃[[善光寺]]如来([[善光寺式阿弥陀三尊]])(善光寺如来は大名の意向で各地を流転し、当時は[[甲斐善光寺]]に在り)を移座して[[本尊]]に迎え、[[開眼法要]]を行うことを計画<ref name="村山(2003)115">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.115</ref>。木食応其の尽力により、[[慶長]]2年([[1597年]])7月18日に善光寺如来が京に到着し、大仏殿に遷座された(義演准后日記)。[[善光寺]]如来は、大仏を取り壊した台座の上に宝塔(厨子のようなものか?)が造られ、そこに安置されたという<ref name="河内(2008)127">[[#河内(2008)|河内(2008)]] p.127</ref>。無傷であった光背もそのまま残されていたという<ref name="河内(2008)127">[[#河内(2008)|河内(2008)]] p.127</ref>。これ以後大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり(義演准后日記)、如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった<ref name="河内(2008)130-131">[[#河内(2008)|河内(2008)]] p.130-131</ref>。ただ巨大な大仏殿に小ぶりな善光寺如来は不釣り合いであり、その異様さを嘲笑する声もあったという<ref name="村山(2003)115">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.115</ref>。秀吉は翌慶長3年([[1598年]])病に臥したが、これは善光寺如来の祟りではないかということで、同年8月17日、善光寺如来は[[信濃国]]の[[善光寺]]へ戻されることとなった<ref name="村山(2003)115">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.115</ref>。しかし秀吉は8月18日に死去した。秀吉の死は外部に伏せられ、8月22日には本尊の無い大仏殿で、大仏殿の完成を祝う大仏堂供養が行われた<ref name="河内(2008)163-165">[[#河内(2008)|河内(2008)]] p.163-165</ref>。
秀吉の子[[豊臣秀頼]]が遺志を継ぐ形で、豊臣家家臣の[[片桐且元]]を担当者として今度は耐震性のある[[銅|銅製]]で大仏の再建を行ったが、慶長7年([[1602年]])11月、[[鋳物|鋳物師]](いも-じ)の過失により大仏の膝上部の鋳造を行っている際に出火し、大仏殿に引火して大火となる<ref name="村山(2003)116">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.116</ref>。これにより初代大仏のみならず初代大仏殿も滅失し、大仏・大仏殿の造立は振り出しに戻った。通常銅造の大仏と大仏殿を造立する場合、まず大仏を完成させた後に、大仏殿を築くものだか、この工事の際は大仏殿は既にあったので、既設の大仏殿の内部で大仏の鋳造工事を行っていたようである(鹿苑日録)。木造建築物の内部で鋳造工事を行うのは危険極まりない行為であり、起こるべくして起きた事故とも言える。[[醍醐寺]]座主の[[義演]]が著した『義演准后日記』には、「日本六十余州の山木、ただ三時のあいだに相果ておわんぬ。太閤数年の御労功ほどなく滅しおわんぬ。(柱材は日本各地から取り寄せたが、わずか6時間で焼失した。秀吉公の数年の苦労も水の泡となった)」と記録されている。また日記の中で義演は、そもそもこのような事態になったのは、初めから耐震性のある銅造で大仏を造立しなかったためだと批判している<ref name="村山(2003)116">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.116</ref>。なお『義演准后日記』によれば、この時の未完成の大仏は(東大寺大仏のように)全身銅造でなく、頭部と腕は木造とした、銅造と木造の混構造で造立する予定であったとされる<ref>張洋一『東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して』(『Museum』1998年6月収録)p.22</ref>。
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Toyotomi hideyoshi.jpg|[[豊臣秀吉]]像([[狩野光信]]画)。豊臣秀吉が大仏を発願したことで京の大仏の造立が始まった。
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