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[[File:Motoori Norinaga self portrait.jpg|thumb|220px|[[本居宣長]]像。本居宣長は方広寺と東大寺の双方の大仏を実見し、感想を日記に書き残した。宣長の感想からも、方広寺大仏の方が、東大寺大仏より高さが上回っていたことが伺える。]]
[[File:Imperial Prince Abbot Shinnninn.jpg|thumb|220px|[[妙法院]]門主の真仁法親王像([[妙法院]]蔵)。真仁法親王の門主在任中に方広寺大仏及び大仏殿が落雷で焼失してしまった。大仏再建に尽力するが、以降往時と同様の規模のものが再建されることはなかった。心労が祟ったためか、文化2年(1805年)に38歳で薨去。]]
先述のように損壊した2代目大仏にかわり、新しく3代目大仏が造立されることになった。時の[[妙法院]]門主[[尭恕法親王]]の日記によれば、[[寛文]]4年([[1664年]])3月29日に武家([[京都所司代]]か?)より大仏を鋳造(銅造)から木造に改めるよう命令があり、同日夜に仏師康祐が訪問してきたという<ref>妙法院史研究会編「妙法院史料」1巻 [[尭恕法親王]]日記 p.28</ref>。[[歴史地震]]研究者の西山昭仁は、2代目大仏が解体され、境外に運び出されたのは寛文4年(1664年)4月としている<ref>西山昭仁『寛文2年(1662)近江・若狭地震における京都での被害と震災対応』2006年 p.48</ref>。新しい木造の3代目大仏は[[寛文]]7年([[1667年]])に落慶した<ref name="村山(2003)148">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.148</ref>。大仏再建時に、地震で損壊を免れた大仏殿の補修工事も行われた。[[妙法院]]が大仏再建の経緯を綴った『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』([[京都国立博物館]]所蔵)によれば[[江戸幕府]]が大仏再建に関与し、[[京都所司代]]の[[牧野親成]]の指示のもと、仏師康祐玄信が大仏再建にあたったという<ref name="村山(2003)148">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.148</ref>。
 
再建された3代目大仏の高さは「[[都名所図会]]」によれば従前の大仏と同じく六丈三尺(約19m)で、[[東大寺]]大仏(14m)よりもかなり大きかった。3代目大仏造立にあたり先行して藤村忠円により作られたとされる大仏の雛形(京都大仏雛形)が現存しており、[[東京国立博物館]]が所蔵している。3代目大仏及び京都大仏雛形の造立の経緯については[[堺市博物館]]学芸員で仏像研究者の張洋一の考察がある<ref>張洋一『東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して』(『Museum』1998年6月 収録)</ref>。3代目大仏は[[七条仏所|七条仏師]]が造立したことは確実とされる。誰が造立したかについては、仏師の系統を記した『本朝大仏師正統系図並末流』によれば康祐とされ、[[妙法院]]の公的見解である『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』では玄信とされている<ref>張洋一『東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して』(『Museum』1998年6月 収録) p.26-27</ref>。このような相違が発生した理由について張は、玄信は康祐の配下であったとし、名義上の造立担当者は康祐であったが、実際の3代目大仏の製作は玄信に委任した為ではないかとしている<ref>張洋一『東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して』(『Museum』1998年6月 収録) p.28</ref>。また張の説では「京都大仏雛形」は玄信の製作によるもので、弟子の藤村忠円に譲られ、伝世されるうちに藤村忠円作と誤認されたのではないかとする<ref>張洋一『東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して』(『Museum』1998年6月 収録) p.28</ref>。『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』によると、玄信は3代目大仏製作の前にいくつかの試作の仏像を作ったとされているが、一つは「京都大仏雛形」で、もう一つは[[大徳寺]]の本尊釈迦如来像とする説がある。[[大徳寺]]の史料である『竜宝塔頭位次』によると、仏殿に安置される本尊釈迦如来像は玄信により製作されたもので、方広寺大仏の1/10サイズの模像であるという<ref>張洋一『東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して』(『Museum』1998年6月 収録) p.28</ref>。なお後述のように現在の方広寺本尊は、3代目大仏の1/10サイズの模像とされるが、両者の像容は趣を異にしている。
再建された3代目大仏の高さは「[[都名所図会]]」によれば従前の大仏と同じく六丈三尺(約19m)で、[[東大寺]]大仏(14m)よりもかなり大きかった。3代目大仏造立にあたり先行して作られたとされる大仏の雛形(京都大仏雛形)が現存しており、[[東京国立博物館]]が所蔵している。大仏殿については先述のように地震での損壊を免れたため、引き続き2代目大仏殿を使用している。
 
1690年から92年に来日したドイツ出身の医師[[エンゲルベルト・ケンペル]]は方広寺に立ち寄りそれを日記に記録する。内容は以下のとおりである。