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'''さんとす丸'''(さんとすまる)
大阪商船所属の初代は日本最初の大型ディーゼル貨客船である[[さんとす丸級貨客船]]のネームシップとして、[[南アメリカ|南米]]への[[移民]]輸送に活躍。[[太平洋戦争]]中は[[特設潜水母艦]]、特設運送船として運用された。大阪商船および商船三井客船(日本移住船)所属の二代目は[[第二次世界大戦]]後に日本で建造された最初の大型貨客船であり、南米への移民輸送に活躍した。
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二代目「さんとす丸」は、[[三菱重工業神戸造船所|三菱神戸造船所]]で昭和27年7月12日に起工して9月20日に進水、奇しくも初代さんとす丸と同じ12月10日に竣工した。平甲板方の船型を持ち、最上甲板に一等船室、その下には食堂と喫煙室が配され、特別三等船室は中甲板、特別三等食堂は上甲板後方にあった<ref name="mkobe50143"/>。[[海上における人命の安全のための国際条約|1948年のSOLAS条約]]に適合した安全確保の設備も完備していたが、この点でも条約適用の日本最初の貨客船でもあった<ref name="mkobe50143"/>。「ささやかな設備」と大阪商船が認めているように<ref name="osk80185"/>、キャパシティ面では初代「さんとす丸」を初めとする戦前の南米航路就航船とは比べものにならなかったが、それはもとが貨客船で、移民船への転換が決まってから特別三等船室を急遽増設したためである<ref>{{Cite web|url=http://jpnships.g.dgdg.jp/showa4/showa4_route_nanbei.htm|title=南米航路 - 海運再建期 大阪商船|work=なつかしい日本の汽船|publisher=長澤文雄|language=日本語|accessdate=2018-04-25}}</ref>。それでも、「さんとす丸」は大阪商船の移民船復活の第一歩を記すこととなった。
「さんとす丸」は竣工後間もなく54名のアマゾン移民を乗せて神戸港を出港<ref name="osk80353">[[#商船八十年史]] p.353</ref>、当初は戦前と同様に西回り南米航路に就航していたが、[[1953年]](昭和28年)4月の日本・[[アルゼンチン]]通商協定締結を機に、昭和28年5月からは[[パナマ運河]]経由の東回り南米航路に回った<ref>[[#商船八十年史]] pp.353-354</ref>。[[1955年]](昭和30年)ごろに移民輸送が一時頭打ちになるが、パラグアイ移民の再開および[[ドミニカ共和国]]、[[ボリビア]]への移民が開始されるに及んでキャパシティの不足が懸念されたため、[[1957年]](昭和32年)に改装が行われて新たに三等船客558名を収容できる船室を増設した<ref>[[#商船八十年史]] p.355</ref>。翌[[1958年]](昭和33年)には
[[1963年]](昭和38年)に日本移住船(現:[[商船三井客船]])が設立されて「さんとす丸」も移籍したが<ref>[[#商船八十年史]] p.222, pp.356-357</ref>、経営が不安定だったため親会社の[[商船三井|大阪商船三井船舶]]に傭船に出たりもした<ref>[[#野間(1)]] p.285</ref>。[[1965年]](昭和40年)には移民船としての最後の航海に従事<ref>「上陸禁止を通告 航行中の移民園児に」『日本経済新聞』昭和40年7月24日15面</ref>。その後は[[1972年]](昭和47年)に[[パナマ]]のLiberty Maritime Corp.に売却されて「'''Winoa'''」と改名、2年後の1974年には[[台湾]]のSincere Nav. Corp.に売却されて「'''Hui Hsing'''」と再改名され、1976年に高雄で解体された<ref>{{Cite web|url=http://jpnships.g.dgdg.jp/company/jpn_builder_019.htm|title=新三菱重工業株式会社神戸造船所建造船 - 海運再建期|work=なつかしい日本の汽船|publisher=長澤文雄|language=日本語|accessdate=2018-04-25}}</ref>。
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