「式場壮吉」の版間の差分
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== 経歴 ==
===生い立ち===
[[千葉県]][[市川市]]の[[病院]]経営者の家に生まれ、精神病理[[学者]]の[[式場隆三郎]]の甥にあたる。
[[成城大学]]文芸学部在学中より輸入車をドライブし、同郷の後輩であった[[浮谷東次郎]]や、[[生沢徹]]、[[本田博俊]]、杉江博愛(後の[[徳大寺有恒]])、[[福澤幸雄]]など
===レースデビュー===
[[File:Flickr - wbaiv - Silver Porsche 904 ^12 DSC 0118.jpg|thumb|right|240px|ポルシェ・904]]
[[1961年]]3月に成城大学文芸学部を卒業後、[[出版社]]に勤務。
その傍ら、[[1963年]]の[[1963年日本グランプリ (4輪)|第1回日本グランプリ]]([[鈴鹿サーキット|鈴鹿]])にむけて[[トヨタ自動車|トヨタ]]とワークスドライバー契約を結び、日本GPではC-Vクラスで[[トヨタ・コロナ|コロナ]]をドライブして優勝した。
[[1964年日本グランプリ (4輪)|第2回日本グランプリ]]ではT-VIクラスで[[トヨタ・クラウン|クラウン]]をドライブし、性能に勝る[[プリンス・グロリア]]勢を相手に3位を獲得した。
また、GT-IIクラスではワークスからではなく個人エントリー
このレースでは、新型ポルシェの入手経緯や、予選クラッシュ後の修復作業、決勝で生沢の[[日産・スカイライン|スカイラインGT]]に先行された1周(「スカイライン伝説」の誕生)など、著名なエピソードを残すことになった<ref>『日本の名レース100選 '64 第2回日本GP』三栄書房</ref>(詳細は[[1964年日本グランプリ (4輪)#エピソード|当該記事]]を参照)。<!-- 出典が示されていない個人的な意見、憶測、伝聞の類は除去しました -->
===引退===
その後、浮谷や生沢らと
[[1965年]]の日本GPにむけて[[ロータス・エラン]] (26R) を入手したが、大会が中止となり、そのままレーサーを引退した。
(なお、代わって開催された全日本自動車クラブ選手権([[船橋サーキット|船橋]]CCC)では、浮谷がエランをドライブして優勝した)
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杉江らと共に、『シキバエンタープライズ』を設立。自動車関連のアクセサリーブランドである『'''レーシングメイト''' (RACING MATE)』 を立ち上げ、浮谷や生沢のレース活動を裏方からサポートした。
彼らの[[トレードマーク]]である四葉の[[シャジクソウ属|クローバー]]<ref>"[http://www.sanwa-trd.co.jp/classicmini/moto/event/20130205.html 2013年02月05日■ RACING MATE とライセンス契約を締結]". 三和トレーディング有限会社</ref>や、[[ヴァンヂャケット]] (VAN) との[[ダブルネーム]]は、当時の若者の憧れのファッションアイテムとなった。
また、自動車雑誌『カーマガジン』([[ベースボール・マガジン社]]刊<ref>後に出版されているネコ・パブリッシング刊の同名雑誌とは異なる。</ref>)の責任編集を行なった。
しかし1960年代末
その後は、市川市[[国府台 (市川市)|国府台]]の精神科病院・式場病院の[[理事長]]だった父の跡を継いで同病院の経営に関わり、専務理事を経て理事長を務めるに至った。
===晩年===
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『[[NAVI]]』や『ENGINE』などの自動車雑誌に度々登場し、[[ミッレミリア]]などのクラシックカーレースにも時々参加していた。
晩年も様々な雑誌や、妻である[[台湾]]の歌手
[[2016年]]5月17日、[[肝臓|肝]]不全のため都内の病院で死去。77歳だった。
== 家族 ==
精神病理学者の[[式場隆三郎]]を伯父に持ち、[[1978年]]に[[中華民国|台湾]]の国民的歌手である[[欧陽菲菲]]と再婚した。
義妹の欧陽ベベ (BeiBei) は、[[渋谷区]][[代官山]]で[[中華料理]]店を営む実業家である。
== 主な愛車遍歴 ==
* [[ポルシェ
* [[ポルシェ
* [[AC
* [[ランボルギーニ
* [[ランボルギーニ
* [[フェラーリ
* ロールスロイス
* ロールスロイス
* [[フェラーリ
* [[ブガッティ
* [[ベントレー
* [[ベントレー
* [[ロールスロイス
* [[フェラーリ
* [[ベントレー
* ロールスロイス
* [[フェラーリ
== 脚注 ==
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