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Pem423 (会話 | 投稿記録)
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==沿革==
===陸軍黎明期の経理部門===
[[1868年]](明治元年)旧暦1月、明治新政府の中に軍事を管掌する海陸軍科が設けられ、翌月には軍防事務局と改称した<ref name="hensen">「陸軍経理組織の変遷と内部監査制度」</ref>。同年旧暦閏4月、さらに官制の改革により軍防事務局は[[軍務官]]となり、軍務官の下に陸軍局が作られた<ref>『法規提要』下巻431頁</ref>。[[1869年]](明治2年)旧暦7月、政府の制度はまた変更し軍務官は[[兵部省]]となり、省内に'''会計司'''が作られた。これが日本軍初の会計部署であり、当時の軍事会計はまだ陸軍と海軍が分化されていなかった。[[1871年]](明治4年)旧暦7月、兵部省内に陸軍部と海軍部が設置された。陸軍部は5つの局から構成され、そのうち第五局が会計局として「金穀度支(きんこくたくし)<ref group="*">金穀(きんこく)は金銭と穀物。金品のこと。度支(たくし)は中国の官制を語源とする経理機関のこと。『広辞苑』第三版</ref>、勘査、被服、糧食、住居等の経理を司る<ref group="*">原文の旧仮名づかい、旧字体の漢字と片仮名書きを、新仮名づかい、新字体と平仮名書きに改め、漢字の一部は平仮名にし適宜読点を加えた。以下引用文はすべて同じ。</ref>」となっていた<ref>{{アジア歴史資料センター|C09060001900|明治4年より8年に至る 規則条例(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref name="hensen" />。この'''兵部省陸軍部第五局'''の設置によって陸軍独自の会計・経理部門が誕生した。当初、第五局の人員は59名であった<ref name="#1">『陸軍経理部』234頁</ref>。黎明期における陸軍の経理担当[[武官]]は、要人の知人や推薦された者の中から旧藩時代の勘定方など適当な人物を選んだり、兵科[[将校]]や陸軍に出仕する[[文官]]を転用したり、他省に在職する人材を招聘するなど、一定の方針のもとに養成を行う段階ではなかった<ref name="#2">『陸軍経理部』231頁</ref><ref name="#3">『陸軍経理学校沿革略史』2頁</ref>。
[[File:Mitsuaki Tanaka.jpg|190px|thumb|初代陸軍省会計局長 [[田中光顕]](後年の肖像)]]
 
[[1872年]](明治5年)旧暦2月、兵部省を廃し[[陸軍省]]が設置され、組織の構成はそれまでの兵部省陸軍部を引き継いだ<ref name="hensen" />。[[1873年]](明治6年)3月、陸軍省の機構が卿官房と7つの局に改組され、'''陸軍省第五局'''が会計・経理部門とされた<ref name="hensen" />。[[1879年]](明治12年)10月、陸軍職制(太政官達第39号)、陸軍省条例(陸軍省達乙第72号)、陸軍会計部条例(陸軍省達乙第77号)がそれぞれ制定され、陸軍の諸制度が整えられて従来の第五局は'''陸軍省会計局'''となった<ref name="hensen" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C09060330600|明治12年 規則條例(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C04028702400|明治12年「大日記本省達書 10月達乙 陸軍省総務局」(防衛省防衛研究所)}}</ref>。このころ会計局と各地の[[鎮台]]勤務などを合わせた陸軍経理官の人員は169名まで増加し、[[1884年]](明治17年)には278名まで規模が拡大した<ref>『陸軍経理部』234頁< name="#1"/ref>。
 
[[大日本帝国海軍|海軍]]では明治初頭から会計教育機関を設置し、のちに[[海軍経理学校]]となったが、陸軍ではまだ正規の補充教育機関は作られなかった。そのかわり明治10年代の初めより会計実務の処理能力向上のための集合教育や私的な研修が続行されていた。著名なものとしては監督会や、[[川口武定]]陸軍二等監督の私邸で行われた夜間講習会の'''川流舎'''などがあったものの<ref>『陸軍経理部』283頁</ref><ref>『陸軍経理学校沿革略史』2頁< name="#3"/ref>、経理部門の規模が拡大するにつれ、陸軍の経理官を補充するための正式な教育機関を設ける必要性が高まった。
 
なお陸軍経理官の階級は各兵科と異なり、[[1886年]](明治19年)の陸軍武官官等表改正([[勅令]]第4号)では次のようになっていた(1886年3月時点)<ref>{{アジア歴史資料センター|A03020000800|御署名原本・明治十九年・勅令第四号・陸軍武官官等表改正}}</ref>。
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}}
===陸軍軍吏学舎での教育===
[[1886年]]([[明治]]19年)8月、陸軍軍吏学舎条例(陸軍省令乙第116号)にもとづき'''陸軍軍吏学舎'''が設立された<ref>{{アジア歴史資料センター|C09050132600|明治19年 陸軍省達 省令乙 省令 陸達 7月より(防衛省防衛研究所)}}</ref>。条例の第1条で軍吏学舎は「陸軍省会計局の管理に属し、学生を召集<ref group="*">この場合の「召集」とは[[召集#日本の軍事における召集|在郷軍人を軍隊に召致すること]]ではなく、すでに軍務についている軍人を特別教育のため指名することである。以下同じ。</ref>しこれに要用なる学術を教授し軍吏部士官と為るべき者を養成する所」と定められた。学舎の編制は陸軍会計局長に属する一等または二等監督の舎長以下、三等監督、監督補あるいは一等、二等軍吏からなる教官8名、軍属の助教4名、書記2名の計15名と学生が当初の定員であった。初代舎長は陸軍省会計局第二課長であった川口武定二等監督が補職された<ref>{{アジア歴史資料センター|C09060064600|明治19年後半年分 日報 官房.省内各局.砲工兵両会議.各監軍部.憲兵・参謀・屯田兵本部(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>『陸軍経理部』231頁< name="#2"/ref><ref name="#4">『陸軍経理学校沿革略史』3頁</ref>。
 
同条例による陸軍軍吏学舎の被教育者は次のとおりである(1886年8月時点)。
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[[1889年]](明治22年)6月、陸軍軍吏学舎条例の追加改正(陸達第96号)により、[[歩兵|歩兵科]]、[[騎兵|騎兵科]]、[[砲兵|砲兵科]]、[[工兵|工兵科]]、[[輜重兵|輜重兵科]]で2年以上その階級にある隊附曹長は定員の4分の1まで軍吏学生に採用することが可能になった<ref>{{アジア歴史資料センター|C08070195200|明治22年 陸軍省達書下 第3号(防衛省防衛研究所)}}</ref>。さらに翌[[1890年]](明治23年)5月末、陸軍軍吏学舎条例の改正(陸達第110号)では「隊附」の文言が削除され、[[憲兵|憲兵科]]、[[屯田兵|屯田兵科]]を除く各兵科で2年以上その階級にあるすべての曹長が軍吏学生へ採用可能とされた<ref>{{アジア歴史資料センター|C08070265200|明治23年 陸軍省達書上 第3号(防衛省防衛研究所)}}</ref>。
 
軍吏学生は第1期から第4期まで計107名の卒業者を数えたが<ref>『陸軍経理学校沿革略史』3頁< name="#4"/ref>、陸軍はさらに上級経理官である監督部の士官を補充する教育も担う教育機関とするため陸軍軍吏学舎を発展的解消し、新しい学校へ再編することとした。
 
===陸軍経理学校の設立===
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[[1897年]](明治30年)8月末、陸軍経理学校条例中改正(勅令第299号)により、監督学生は40歳以下の年齢制限を設け、憲兵科を除く各兵科中尉と二等軍吏は実役停年1年以上から志願可能とした。軍吏学生には32歳以下の年齢制限を設けた<ref>{{アジア歴史資料センター|A03020304100|御署名原本・明治三十年・勅令第二百九十九号・陸軍経理学校条例中加除}}</ref>。
===学校を“若松台”へ移転===
[[1898年]](明治31年)11月、学校施設のうち生徒舎を[[東京市]][[牛込区]][[河田町]]の[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]分校跡に移転した<ref>生徒舎移転 [{{NDLDC|2947901/5}} 『官報』第4611号、1898年11月11日]</ref>。翌年11月、本校を生徒舎構内へ仮移転し<ref name="#5">{{アジア歴史資料センター|C07041559000|参大日記 明治32年11月(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>陸軍経理学校仮移転 [{{NDLDC|2948218/3}} 『官報』第4928号、1899年12月4日]</ref>、[[1900年]](明治33年)3月、新築中の校舎落成を待って陸軍経理学校は正式に牛込区河田町へ移転した<ref>{{アジア歴史資料センター|C07041559000|参大日記 明治32年11月(防衛省防衛研究所)}}<name="#5"/ref><ref>『陸軍経理学校沿革略史』40頁</ref>。学校の公式な住所は河田町であったが隣地である若松町の名がよく知られ、陸軍士官学校が通称'''市谷台'''と呼ばれることにならい、陸軍経理学校は'''若松台'''とも呼ばれた<ref name="#6">『陸軍経理部』253頁</ref>。
 
[[1899年]](明治32年)12月、陸軍武官官等表中改正(勅令第411号)が施行された<ref>{{アジア歴史資料センター|A03020421600|御署名原本・明治三十二年・勅令第四百十一号・陸軍武官官等表中改正}}</ref>。この改正で、一等から三等までの書記であった軍吏部下士の階級名が一等から三等までの'''計手'''に変更された。また憲兵科を除く各兵科の特業下士であった縫工長、縫工下長と、靴工長、靴工下長は廃止され、軍吏部下士に一等から三等までの'''縫工長'''、および一等から三等までの'''靴工長'''が新設された。
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経理部士官候補生の制度は、軍縮期に廃止された主計候補生制度の事実上の復活である<ref>『陸軍経理部』252頁</ref>。ただし兵科の士官候補生が、陸軍士官学校予科生徒、部隊勤務、本科生徒という順序を経る制度に変更されていたことに合わせ、初めから候補生とせず予科生徒として採用するなど、明治、大正時代とは若干の違いがある。これ以後、陸軍経理官の本流は経理部士官候補生出身者となることが期待され、全国から優秀な若者が若松台に集まった。
 
[[学校法人青山学院|青山学院専門部]]を卒業し幹部候補生から予備役将校となった評論家の[[山本七平]]は戦後、『週刊朝日』誌上で{{Bquote|私たちのころは陸軍経理学校というと一番尊敬しましたね、競争率は六十倍ぐらいでしょう。これは秀才だという意識がありましたよ。}}と回想している<ref>『陸軍経理部』253頁< name="#6"/ref>。
 
[[1936年]](昭和11年)1月、陸軍経理学校予科生徒の召募(陸軍省告示第1号)が告示された<ref>陸軍省告示第1号 [{{NDLDC|2959188/1}} 『官報』第2709号、1936年1月16日]</ref>。第1期の採用予定は約30名である。有資格者は次のとおり。
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上の条件を満たし、かつ最終学歴の学校教練検定に合格している者に限られる<ref>{{アジア歴史資料センター|A03022181500|御署名原本・昭和十三年・勅令第一三七号・陸軍補充令中改正}}</ref>。幹部候補生はまず所属部隊で基本教育を受けたのち、予備役将校に適すると認められ'''経理部甲種幹部候補生'''に選抜されると主計軍曹の階級で陸軍経理学校に入校した。幹部候補生教育開始当初は陸軍経理学校に幹部候補生隊を設置せず、幹部候補生は下士官候補者隊で起居し訓育が行われた<ref>{{アジア歴史資料センター|C01001717800|永存書類 甲輯 第4類 第1冊 昭和14年(防衛省防衛研究所)}}</ref>。なお前述した1939年8月の学校令中改正に先立つ1938年(昭和13年)1月、甲種幹部候補生教育を各所属部隊で終えた予備役経理部見習士官187名が陸軍経理学校へ入校し、試験的に集団教育を実施している<ref>{{アジア歴史資料センター|C01004471200|密大日記 第7冊 昭和13年(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>『陸軍経理部』332頁</ref>。
===太平洋戦争下の教育===
[[1941年]](昭和16年)12月、日本は米英など連合国に対して全面的な戦争を開始し、日中戦争は[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])へと拡大した。翌[[1942年]](昭和17年)3月、人員が増大した陸軍経理学校は[[東京府]][[北多摩郡]][[小平市|小平村]]に移転した<ref>彙報 陸軍経理学校移転 [{{NDLDC|2961067/40}} 『官報』第4565号、1942年3月31日]</ref>。同村の学校用地は30万[[坪]]の広さがあったとされる<ref name="#7">『陸軍経理部』333頁</ref>。
 
1942年4月、陸軍武官官等表ノ件中改正(勅令第297号)が施行された<ref>{{アジア歴史資料センター|A03022719700|御署名原本・昭和十七年・勅令第二九七号・昭和十五年勅令第五百八十号陸軍武官官等表ノ件中改正ノ件}}</ref>。この改正で文官(いわゆる軍属)であった建築関係の事務に従事する陸軍技師<ref group="*">陸軍技師(りくぐんぎし)は陸軍に属し技術関係の職に従事する、将校と同等の高等文官である。『防衛研究所紀要』第8巻第2号72頁</ref>および陸軍技手<ref group="*">陸軍技手(りくぐんぎしゅ)は陸軍に属し技術関係の職に従事する判任文官。下士官(判任武官)と同等である。技師との聞き間違いを避けるため、技手を「ぎて」と[[重箱読み]]する場合がある。『防衛研究所紀要』第8巻第2号72頁</ref>が武官の'''建技将校'''および'''建技下士官'''となった。また従来の縫工准士官、縫工下士官と装工准士官、装工下士官は統合され、'''経技准士官'''、'''経技下士官'''になった<ref>{{アジア歴史資料センター|A03010029300|昭和十五年勅令第五百八十号陸軍武官官等表ノ件中ヲ改正ス・(陸軍法務官並ニ建築関係ノ技師ヲ武官トスル為及衛生将校等ノ最高官等ヲ少佐マテ進メル為)}}</ref>。
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日中戦争から太平洋戦争の期間、年を追うごとに戦局は激化し、陸軍では兵科同様に経理官も大量かつ早急な補充が求められるようになった。そのため陸軍経理学校の学生、生徒、幹部候補生、下士官候補者など各教育の実状は学校令その他で定められた修学期間を大幅に短縮し<ref>{{アジア歴史資料センター|C01005143100|昭和15年「陸普綴」(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C01007865300|陸密綴昭和20年(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C12120514000|陸密綴 昭和20年(防衛省防衛研究所)}}</ref>、予科生徒の採用年齢は15歳以上<ref group="*">採用年の4月1日時点での満年齢。</ref>、20歳未満と下限が変更されている<ref>陸軍省告示第2号 [{{NDLDC|2961904/1}} 『官報』第5401号、1945年1月19日]</ref>。
 
[[1945年]](昭和20年)8月、日本政府は[[ポツダム宣言]]受諾を決定した。終戦の玉音放送が8月15日に行われ、それ以後の陸海軍は従来の機能を失った。[[石川県]][[金沢市]]と[[福島県]]若松市(現在の[[会津若松市]])に分散し[[疎開]]中であった<ref>『陸軍経理部』333頁< name="#7"/ref>陸軍経理学校は同月のうちに閉校となった。学校の根拠となる陸軍経理学校令は、同年11月13日施行の「陸海軍ノ復員ニ伴ヒ不要ト為ルベキ勅令ノ廃止ニ関スル件」(勅令第632号)により廃止された<ref>{{アジア歴史資料センター|A04017774000|御署名原本・昭和二十年・勅令第六三二号・陸海軍ノ復員ニ伴ヒ不要ト為ルベキ勅令ノ廃止ニ関スル件}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|A03010226000|陸軍ノ復員ニ伴ヒ不要ト為ルヘキ勅令(陸軍士官学校令外四十二件)廃止ニ関スル件}}</ref>。
 
== 年譜 ==
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* [[辻村楠造]] 一等監督:1903年(明治36年)5月1日 - 1903年(明治36年)11月30日
* ''隈徳三 二等主計正'':1903年(明治36年)11月30日 - 1904年(明治37年)3月9日 ※校長事務取扱<ref group="*">辻村校長の欧州出張によるもの。『陸軍経理学校沿革略史』49頁</ref><ref>『陸軍経理学校沿革略史』49,72頁</ref>
* ''藤村盛義 一等主計正'':1904年(明治37年)3月9日 - 1904年(明治37年)5月4日 ※校長事務取扱<ref name="#8">『陸軍経理学校沿革略史』52,72頁</ref>
* ''内海春震 一等主計正'':1904年(明治37年)5月4日 - 1905年(明治38年)4月3日 ※校長事務取扱<ref>『陸軍経理学校沿革略史』52,72頁< name="#8"/ref>
* 大野賢一郎 一等主計正:1905年(明治38年)4月3日 - 1909年(明治42年)8月12日<ref>『陸軍経理学校沿革略史』53,72頁</ref>
* 高山嵩 二等主計正:1909年(明治42年)8月12日 - 1910年(明治43年)11月30日