「京の大仏」の版間の差分
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(新暦では8月12日)の夜に大仏殿に落雷があり、それにより火災が発生し、翌2日まで燃え続け、2代目大仏殿と3代目大仏は灰燼(かいじん)に帰した<ref name="村山(2003)157">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.157</ref>。火災による大仏殿からの火の粉で類焼も発生し、仁王門・回廊も焼失した<ref name="村山(2003)157">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.157</ref>。なお「国家安康」の梵鐘や、方広寺境内に組み込まれていた[[三十三間堂]]は類焼を免れた。大仏殿はその巨大さゆえに落雷の被害に遭う確率が高く、安永4年(1775年)にも落雷を受けたが、全焼は免れていた(続史愚抄)<ref name="村山(2003)149">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.149</ref>。
落雷による焼失の過程は[[大田南畝]]著とされる『半日閑話(街談録)』や[[平戸藩]]藩主の[[松浦清]]が著した[[甲子夜話]]に記述されるほか、『洛東大仏殿出火図([[国際日本文化研究センター]]所蔵)』に絵図で記録されている{{efn|https://twitter.com/nichibunkenkoho/status/1303893942035832832/
国際日本文化研究センター公式Twitter 蔵書紹介 洛東大仏殿出火図}}。その絵図では火消し達が懸命に消火活動にあたる姿も描かれているが、当時は[[竜吐水]]など性能の低い放水設備しかなく、[[破壊消火]]も不可能なため、初期消火に失敗し、大火となった。大規模に燃え広がってしまったので、自身の所有する放水設備のみならず、本願寺より大水鉄砲の貸与を受け、放水を試みたとされるが<ref>『史籍集覧』の「京大仏殿火災」</ref>、先述のように当時の放水設備には性能に限界があり、焼け石に水であった。2日には大仏殿より炎が高く立ち登って京都市街からも確認でき<ref name="村山(2003)158">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.158</ref>、日中は火災による黒煙で太陽光が遮られ、暗闇のようであったという。火事を知らせる早鐘が乱打され、再び[[天明の大火]]のような大火になるのではと、京都の人びとを震撼させたが<ref name="村山(2003)158">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.158</ref>、不幸中の幸いか2日は無風のため、敷地外に火の粉は飛び散らず、市街へ燃え広がらなかった<ref name="村山(2003)158">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.158</ref>。「(大仏は)御鼻より火燃出、誠に入滅の心地にて京中の貴賎、老若、其外火消のもの駆け付け、此時に至りいたし方なく感涙を催し、ただ合掌[[十念]]唱えしばかり也<ref>『大田南畝全集』第十八巻 岩波書店 1988年 p.173</ref>」「衆口斉唱南無(毘盧遮那)仏<ref>「寛政戊午七月朔雷震燬方廣寺毘盧殿」(京都大学蔵)</ref>」などと記録した文献類もあり、それらによれば、焼けた柱棟が堂内に落下して3代目大仏像に寄りかかり、大仏は鼻から出火<ref name="田中(1957)12">[[#田中(1957)|田中(1957)]] p.12</ref>。火災現場に集まった僧侶・火消・京都民衆達は、焼け落ちゆく大仏を前に、悲涙を流し、合掌をし、「南無(毘盧遮那)仏」と何度も唱えながら、3代目大仏の最期を見届けた<ref name="田中(1957)12">[[#田中(1957)|田中(1957)]] p.12</ref>。なお治承4年(1181年)の平家による[[南都焼討]]での[[東大寺]]大仏殿火災では、大仏殿に取り残された者や、東大寺大仏に殉じて炎に飛び込んだ者が落命したとするが<ref>『吾妻鏡』治承5年正月18日条</ref>、方広寺大仏殿の火災では幸いなことに、そのような人的被害(死者)は記録されていない。ただし消火活動中に高所から落下して、負傷した者があったという<ref name="村山(2003)158">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.158</ref>。
先述の方広寺大火について、方広寺を管理する[[妙法院]]の、有事の際の防火管理体制の不備が原因ではないかとする見解がある。前述のように[[大田南畝]]作とされる『半日閑話(街談録)』には、伝聞ではあるが、方広寺焼失時の出来事が記述されており、それによれば概略は以下の通りである。「7月1日の夜は大雨で、大仏殿北東隅に落雷があり、堂守が落雷箇所に火のくすぶっているのを確認し、太鼓を鳴らして火消を召集した。竜吐水の放水が届かない高所のため即席の足場を組み、火を打ち消した。その後外を見廻り、火の手はないように見えたので火消は引き上げた。しかし火は完全に消えておらず棟木が燃え始めた。そのため再び太鼓を鳴らして火消を召集したが、屋根板の裏面へ火が廻ってしまい、消火を諦め退避した。<ref name="#22">『大田南畝全集』第十八巻 岩波書店 1988年 p.171-173</ref><ref name="村山(2003)158">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.158</ref>{{efn|現代の火災においても、天井や屋根裏板に炎が廻ってしまった場合、もはや消火器等による初期消火は不可能で、強力な放水設備での放水か、酸素を遮断する窒息消火等によらなければ消火は不可能とされる。}}」「仁王門に安置されていた巨大な仁王像について、火の手が回る前に持ち出そうと試みたが、地震対策のため鎖で仁王門に緊結されており、鎖を取り外すそうと、もたもたとしている間に仁王像は火に飲み込まれた。<ref name="#22"/><ref name="村山(2003)158">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.158</ref>」上記について、見方によれば大仏殿の消火は可能であったと考えられるし、仁王像の搬出も可能であったとも考えられる。歴史学者で[[妙法院]]史料研究者の[[村山修一]]は、方広寺大仏殿の当時の防火管理体制について「(半日閑話等の記述が正しいとすれば)平素より火災への対策が皆無に等しく、せめて[[屋根裏]]へ登る階段や足場を用意しておけば屋根裏の火を見逃すことはなかったのではなかろうか。また仏像搬出も多少は可能であったろう。当時の消火技術が大災害に追付けなかったことは認められるとしても被害を最小限に抑える工夫が足りなかったのは失態というほかはない。(補注:現存する設計図及び各種文献記録から、方広寺大仏殿に天井板は張られておらず屋根板現しで、[[屋根裏]]空間は存在しないとされる。その点については村山の誤認と思われる)」と批判している<ref name="村山(2003)158-159">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.158-159</ref>。一方で村山は、方広寺大仏殿は経年劣化で修繕に多額の費用を要するようになり、その捻出に[[妙法院]]が四苦八苦していたこと、妙法院が[[江戸幕府]]([[京都所司代]])に対し大仏殿修繕の工事費用の融資を度々依頼していたことから、皇族が門主を務める[[門跡]]寺院とはいえ、一民間寺院である妙法院が、方広寺大仏殿のような巨大建造物を維持管理するのは大変な困難を極めていたともしている。江戸期の寺社の知行(領地)について[[興福寺]]・[[増上寺]]など1万石を越える寺社もあるなか、[[妙法院]]の知行は約1,600石であった<ref>妙法院史研究会編「妙法院史料」1巻 p.12</ref>。これは[[東大寺]]の知行約2,000石をも下回る。
先述のように[[甲子夜話]]にも方広寺大火についての記述がある。それは[[東福寺]]の僧印宗より聞いた話としている<ref>『史料京都見聞記』第5巻 1992年 p.134-136</ref>。概略は以下の通りであるが、『半日閑話』の記述と相反する部分もある。[[甲子夜話]]では大仏殿の北西隅に落雷があったとする。大火の原因については、『半日閑話』の記述のような、火消の火の消し漏れではなく、出火点が高所のため簡単に消火できず、足場を設けたころには火が他所へも移ってしまったためとする。2日の朝六つ半過頃、屋上瓦の一部落ち、火の勢いがますます盛んになったが、[[組物]]や垂木は落ちなかった。しかし屋根材の落下が起こり始め、この頃大仏は燃えたとする。この時の方広寺大仏殿から立ち上る炎は東福寺からも見えたという。『半日閑話』の記述と同じく7月1日の夜は雨であったとし、翌2日は朝五つ時頃に雨が小降りになり、四つ時頃に雨が止んだとする。四つ半頃に大仏殿の屋根が焼け落ち、九つ半過には大仏殿が崩れ去ったとしている。仁王像が地震対策のため鎖で仁王門に緊結されており、搬出できなかった話は[[甲子夜話]]にも記録されている。[[甲子夜話]]では、1日夜の出火から、翌2日の日中過まで大仏殿が崩壊しなかったのは、柱一本毎に数個の鉄輪で固め、横架材も巨大なかすがいで頑丈に固定してあったため、容易に焼け落ちなかったためであろうとしている。
なお方広寺大火の原因について、先述の有事の際の防火管理体制の不備のほか、7月1日の夜は新月であったことも、消火活動をするにあたり不利になったと考えられる。旧暦は月の満ち欠けを基準とする[[太陰太陽暦]]であり、[[新月]]を1日(朔日)とする。そのため火災の発生した[[寛政]]10年([[1798年]])7月1日の夜は新月であり、暗闇が消火活動の妨げになった可能性がある。
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