「京の大仏」の版間の差分
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先述の方広寺大火について、方広寺を管理する[[妙法院]]の、有事の際の防火管理体制の不備が原因ではないかとする見解がある。前述のように[[大田南畝]]作とされる『半日閑話(街談録)』には、伝聞ではあるが、方広寺焼失時の出来事が記述されており、それによれば概略は以下の通りである。「7月1日の夜は大雨で、大仏殿北東隅に落雷があり、堂守が落雷箇所に火のくすぶっているのを確認し、太鼓を鳴らして火消を召集した。竜吐水の放水が届かない高所のため即席の足場を組み、火を打ち消した。その後外を見廻り、火の手はないように見えたので火消は引き上げた。しかし火は完全に消えておらず棟木が燃え始めた。そのため再び太鼓を鳴らして火消を召集したが、屋根板の裏面へ火が廻ってしまい、消火を諦め退避した。<ref name="#22">『大田南畝全集』第十八巻 岩波書店 1988年 p.171-173</ref><ref name="村山(2003)158">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.158</ref>{{efn|現代の火災においても、天井や屋根裏板に炎が廻ってしまった場合、もはや消火器等による初期消火は不可能で、強力な放水設備での放水か、酸素を遮断する窒息消火等によらなければ消火は不可能とされる。}}」「仁王門に安置されていた巨大な仁王像について、火の手が回る前に持ち出そうと試みたが、地震対策のため鎖で仁王門に緊結されており、鎖を取り外すそうと、もたもたとしている間に仁王像は火に飲み込まれた。<ref name="#22"/><ref name="村山(2003)158">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.158</ref>」上記について、見方によれば大仏殿の消火は可能であったと考えられるし、仁王像の搬出も可能であったとも考えられる。歴史学者で[[妙法院]]史料研究者の[[村山修一]]は、方広寺大仏殿の当時の防火管理体制について「(半日閑話等の記述が正しいとすれば)平素より火災への対策が皆無に等しく、せめて[[屋根裏]]へ登る階段や足場を用意しておけば屋根裏の火を見逃すことはなかったのではなかろうか。また仏像搬出も多少は可能であったろう。当時の消火技術が大災害に追付けなかったことは認められるとしても被害を最小限に抑える工夫が足りなかったのは失態というほかはない。(補注:現存する設計図及び各種文献記録から、方広寺大仏殿に天井板は張られておらず屋根板現しで、[[屋根裏]]空間は存在しないとされる。その点については村山の誤認と思われる)」と批判している<ref name="村山(2003)158-159">[[#村山(2003)|村山(2003)]] p.158-159</ref>。一方で村山は、方広寺大仏殿は経年劣化で修繕に多額の費用を要するようになり、その捻出に[[妙法院]]が四苦八苦していたこと、妙法院が[[江戸幕府]]([[京都所司代]])に対し大仏殿修繕の工事費用の融資を度々依頼していたことから、皇族が門主を務める[[門跡]]寺院とはいえ、一民間寺院である妙法院が、方広寺大仏殿のような巨大建造物を維持管理するのは大変な困難を極めていたともしている。江戸期の寺社の知行(領地)について[[興福寺]]・[[増上寺]]など1万石を越える寺社もあるなか、[[妙法院]]の知行は約1,600石であった<ref>妙法院史研究会編「妙法院史料」1巻 p.12</ref>。これは[[東大寺]]の知行約2,000石をも下回る。
先述のように『[[甲子夜話]]』にも方広寺大火についての記述がある<ref>『史料京都見聞記』第5巻 1992年 p.134-136</ref>。それは[[東福寺]]の僧印宗より聞いた話としている。概略は以下の通りであるが、『半日閑話』の記述と相反する部分もある。『[[甲子夜話]]』では、7月1日夜は雷鳴がとどろいていたが、落雷は2日八つ時(午前1時)にあり、大仏殿の北西隅に落
なお方広寺大火の原因について、先述の有事の際の防火管理体制の不備のほか、7月1日の夜は新月であったことも、消火活動をするにあたり不利になったと考えられる。旧暦は月の満ち欠けを基準とする[[太陰太陽暦]]であり、[[新月]]を1日(朔日)とする。そのため火災の発生した[[寛政]]10年([[1798年]])7月1日の夜は新月であり、暗闇が消火活動の妨げになった可能性がある。
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