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[[明治維新]]後、顕家の父親房が著した『神皇正統記』を先駆とする[[皇国史観]]が「正統な歴史観」として確立していくと、南朝に忠誠を尽くしてきた顕家、新田義貞、楠木正成らが再評価されるようになる。[[1868年]]([[明治]]元年)、[[米沢藩]]の儒者・[[中山雪堂]]と医師・[[西尾元詢]]が顕家らの英霊を祀る神社の創立の運動を起こし、[[1876年]](明治9年)の[[明治天皇]]の東北巡幸を機会として、陸奥国府があったことにより建武の新政にゆかりのある[[霊山 (福島県)|霊山]]が選定、[[1880年]](明治13年)6月に霊山の西方山麓に[[霊山神社]]が造営された。[[1885年]](明治18年)にこれは別格官幣社に列せられ、[[建武中興十五社]]の一つとなった。
また、[[明治]]8年([[1875年]])に[[阿倍野区|阿倍野]]に顕家を祀る祠が地元の人々によって建てられた。これは[[明治14年]]([[1881年]])11月16日に顕家と親房の二人を祭神とする[[別格官幣社]]となり、建武中興十五社の一つ[[阿部野神社]]となった。
これとは別に、[[江戸時代]]に北畠の末裔なる[[鈴木家次]]なる人物が、顕家、親房、顕信をともに伊勢[[多気]]の祠に祭り、これはのちに北畠八幡宮となった。明治14年に北畠八幡宮は村社[[北畠神社]]となり、[[昭和]]3年11月10日に別格官幣社に昇格した。こちらは顕信を主祭神とし、顕家は配祀となっている。
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