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{{by|1993年}}は外野手の鈴木貴久がひじの手術を受け、戦列を離れたことなどから出場機会が大きく増え、自己最多の112試合に出場する。調子の波が激しくレギュラー定着はならなかった<ref>『読売新聞』、1993年12月13日付夕刊、P.3</ref>ものの、1,100万円増の年俸3,500万円で契約を更改した<ref>『読売新聞』、1993年12月9日付朝刊、P.20</ref>。翌{{by|1994年}}はキャンプ序盤の[[2月14日]]に自打球を当てて右足[[親指]]を骨折した<ref>『読売新聞』、1994年2月14日付朝刊、P.21</ref>が、レギュラーシーズンに入ると好調を維持。[[いてまえ打線]]の恐怖の九番打者と呼ばれ<ref>『週刊ベースボール』、1996年6月12日号、P.58</ref>、中堅手として64試合に先発出場するなど10本塁打、42打点を記録した。しかし{{by|1995年}}は左手首を故障し、治療のため全国の病院を回り、試合にはほとんど出場できなかった。さらに秋季キャンプでも再び手首を痛めた<ref name="baseball_20031215_122"/>。秋に手首の関節[[軟骨]]の手術を受け、翌{{by|1996年}}前半は[[リハビリテーション|リハビリ]]に集中して、一軍昇格は7月となった<ref name="baseball_19960618_57">『週刊ベースボール』、1996年6月12日号、P.57</ref>。
 
{{by|1997年}}シーズンオフ、[[横浜ベイスターズ]]の正外野手[[波留敏夫]]が[[プロ野球脱税事件]]に関わったことが発覚し、翌年開幕からの[[出場停止#野球|出場停止]]処分が下されたため、その代役を探していた[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]の[[権藤博]]監督が中根の獲得を強く要望<ref name="baseball_20031215_122">『週刊ベースボール』、2003年12月15日号、P.122</ref><ref group="注">権藤は中根が近鉄に入団した当時の一軍投手コーチだった。</ref>。これを受け横浜は12月、セットアッパーの[[佐野慈紀|佐野重樹]]が肘の手術で来季絶望となりリリーフ投手の補強を目論んでいた近鉄に、先発転向が失敗し右ひじを痛めて登板機会が減ってはいたが[[佐々木主浩]]とのダブルストッパーとして活躍していた[[盛田幸妃|盛田幸希]]を提示すると交換トレードが成立し、中根の横浜移籍が決まった。盛田は過去に[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]のタイトルを獲得し、さらに同年まで2年連続で[[開幕投手]]を務めた横浜の主力投手であり、中根とは「実績や年俸の面でギャップがある」と当事者の中根<ref name="baseball_20031215_122"/>やベイスターズ取締役の[[野口善男]](法大の先輩)も認める<ref>『読売新聞』、1997年12月2日付朝刊、P.23</ref>異例のトレードだった。
 
=== 横浜時代 ===