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プリトビ・ナラヤンが死ぬまで、[[チャウダンディー・セーナ王国]]や[[ビジャイプル・セーナ王国]]を併合し、[[ブータン王国]]や[[シッキム王国]]と国境を接するまでその領土を拡大した<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.499</ref>。その後、[[プラタープ・シンハ・シャハ|プラタープ・シンハ]]、[[ラナ・バハドゥル・シャハ|ラナ・バハドゥル]]が[[二二諸国]]、二四諸国を次々に併合した<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.503</ref>。
 
だが、18世紀末に[[チベット]]と貿易の諸問題で衝突したことから、チベットの[[宗主国]]である[[清]]の介入を招き、[[1788年]]から[[1792年]]にかけて[[清・ネパール戦争]]が勃発した<ref name="#名前なし-1">佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.505</ref>。この戦争で首都カトマンズ近郊まで攻め入られ、その[[朝貢]]国となり、[[冊封]]体制に組み込まれた。以後、ネパールは5年に一度は朝貢使を北京に派遣せねばならず(五年一貢)<ref name="#名前なし-1"/>、それは清が[[1912年]]に滅亡するまで続いた。
 
清軍との衝突後は再び国内における統一に力を注ぎ、[[1804年]]には二四諸国で最も強力であった[[パルパ・セーナ王国]]を計略で併合した<ref name=":0">佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.510</ref>。そののち、同年から遠征軍が[[アルモーラー]]地方を越えて、[[ガルワール]]、[[デヘラードゥーン]]などを制圧し、1805年から1806年にかけてはサトレジ川を越えて西進した<ref name=":0" />。
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=== 立憲王政期(1951年 - 2008年) ===
王家がその実権を取り戻したのは[[1951年]]のことである<ref name="#名前なし-2">佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.611</ref>。亡命先から帰国した[[トリブバン・ビール・ビクラム・シャハ|トリブバン]]国王は初めて[[立憲君主制]]を採用した。
 
[[1959年]]、[[マヘンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|マヘンドラ]]国王は[[憲法]]を公布してネパール初の総選挙を実施。選挙の結果[[ネパール会議派]]が大勝し、[[ビシュエシュワル・プラサード・コイララ]]内閣が誕生する<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.646</ref>。
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[[1972年]][[1月31日]]、マヘンドラ国王は死去。同日、マヘンドラの長男[[ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ビレンドラ]]が跡を継ぎ、国王に即位する<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.654</ref>。
 
[[1990年]]、[[民主化運動]]である[[ジャナ・アンドラン]]の高まりに押されて、[[ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ビレンドラ]]国王は民主的憲法を制定し、直接選挙による国会、国会から選ばれる内閣を復活する<ref name="#名前なし-2"/>。この事により、ビレンドラは開明的君主として、国民の厚い信頼を得た。
 
[[2001年]][[6月1日]]、[[ネパール王族殺害事件]]が発生し、ビレンドラ国王はじめ多くの王家の構成員が死亡した。昏睡状態の[[ディペンドラ]]皇太子が数日間王位についたが死亡し、叔父の[[ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ギャネンドラ]]が即位した<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.678</ref>。