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出典追加(俳文学会刊「連歌俳諧研究」100号など)
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父、弥五兵衛は高熱を発し、食欲も無かった。倒れた翌日もしきりと体のだるさを訴え、体調が回復する様子もない。近医に診てもらったところ病名は陰性の傷寒で、回復の見込みは極めて少ないとの診断であった。4月29日(1801年6月10日)、死期を悟った弥五兵衛は一茶と仙六を枕元に呼び、財産を一茶と仙六とで二分するよう言い渡した。すると仙六は病床の父と言い争いになってしまった。仙六にとってみれば、一茶不在の間に母、はつと共に努力して一家の財産を増やしてきたとの自負があった。父からその家産を二分せよと言われたところで簡単に納得できるものではなかった。これが文化11年([[1814年]])まで約13年間続く、継母と弟との遺産相続の争いの発端であった<ref>小林(1986)pp.86-87、小林(2002)p.22、矢羽(2004)pp.162-163</ref>。
 
前述のように一茶は父の死去とそれに伴う遺産を巡る継母、弟との骨肉の争いを「[[父の終焉日記]]」にまとめている<ref group="†">矢羽(2004)p.162によれば、父の終焉日記という題名は[[束松露香]]によるものであり、束松の命名が定着している。</ref>。親族間の遺産相続における争いごとは比較的ありふれた出来事ではあるが、江戸期以前の日本では文学の題材として取り上げられることが無かった題材であった。赤裸々に描かれた遺産を巡る親族間の骨肉の争いは読者にやるせない思いを抱かせるものである一面、極めて人間的なテーマを[[私小説]]風にまとめ上げており、「父の終焉日記」は日本の[[自然主義文学]]の草分けであるとの評価がなされるようになった<ref>小林(1986)p.93、矢羽(2004)p.80、pp.163-165</ref>,<ref>[[マブソン青眼]]「『父の終焉日記』の文体にみる比喩表現」、俳文学会刊行『連歌俳諧研究』・100号・2001年2月</ref>。もちろん「父の終焉日記」は一茶の視点によって書かれたものであり、内容的にも創作が見られ、遺産相続問題において、一茶が善人、継母と弟が欲にまみれた悪人であるように描かれた記述は慎重に読まねばならない<ref>小林(1986)p.95、矢羽(2004)pp.80-81、p.165</ref>。
 
現実問題として父が倒れた時期は農繁期に当たっていて、継母と弟は日々の農作業に追われ、勢い、父の看病は一茶に任される形となった。これは継母、弟にとって終始父の看病に当たっている一茶が重態の父を篭絡するのではないかとの疑心暗鬼を深めることにも繋がった。しかし遺産を兄弟で二分せよと意思を示した父、弥五兵衛にはしっかりとした考えがあった。父としてはわずか15歳で一茶を江戸奉公に出し、これまで苦労をさせてしまったとの負い目があった。そして北信濃の遺産分割の習慣は基本的に均分相続であり、事実、一茶の一族、小林家は祖父の代も財産を均分に分割して相続している。父の遺産相続における判断は、北信濃で一般的であった遺産相続方法、そしてこれまで小林家で行われてきた相続方法から見ても妥当なものとも言えた<ref>小林(1986)p.89、小林(2002)pp.58-59、矢羽(2004)p.81、後藤、宗村(2016)p.136</ref>。
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* 西川徹真「妙好人俳諧寺一茶と浄土真宗」『日本仏教文化論叢 下巻 北畠典生博士記念論文集』永田文昌堂、1998、ISBN 4-8162-1009-1
* 前田利治『一茶の俳風』冨山房、1990、ISBN 4-572-00770-5
* [[マブソン青眼]] 『江戸のエコロジスト一茶』、[[角川書店]]、2010, {{ISBN2|9784046212870}}
* [[マブソン青眼]] 『詩としての俳諧、俳諧としての詩 ― 一茶・クローデル・国際ハイク』永田書房、2005、{{ISBN2|9784816107054}}
* 丸山一彦『一茶とその周辺』花神社、2000、ISBN 4-7602-1565-4
* 水上勉「郷土の根について」『鑑賞 日本古典文学第32巻 蕪村・一茶』角川書店、1976