| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川家斉]]
| 藩 = [[蝦夷地|蝦夷]][[松前藩]]主→、[[陸奥国|陸奥]][[梁川藩]]主→、蝦夷松前藩主
| 氏族 = [[蠣崎氏|松前氏]]
| 父母 = [[父]]:[[松前道広]]、[[母]]:平田氏
| 兄弟 = '''章広'''、男子、[[蠣崎広匡]]、竹子、増子、<br/>女子、[[杉村治義]]、[[松前広純|広純]]、幸之助、連之助、澄子、岩子、琴子
| 妻 = [[正室]]:'''[[笠原紋十郎]]の姉'''
| 子 = 市之助、染子、欣子、[[松前見広|見広]]、久之助、<br/>伊勢子、初子、朗子、成子、聿子、[[松前重広|重広]]、[[松前広経|広経]]、[[松前崇広|崇広]]<br/>[[養女]]:''友子''
| 特記事項 =
}}
'''松前 章広'''(まつまえ あきひろ)は、[[江戸時代]]中期から後期にかけての[[大名]]。[[蝦夷地]][[松前藩]]の第9代[[藩主]]。[[官位]]は[[従五位|従五位下]][[若狭国|若狭守]]。
== 生涯 ==
[[安永 (元号)|安永]]4年([[1775年]])、第8代[[藩]]主・[[松前道広]]の長男として誕生。[[寛政]]4年([[1792年]])10月28日、父・道広の隠居により、家督を継いだぐ。同年11月11日、第11代将軍・[[徳川家斉]]にお目見え、従五位下若狭守に叙任したする。
寛政7年(1795年)、家老の[[蠣崎波響]]は京より[[大原呑響|大原左金吾(呑響)]]を招聘し、章広の文武の師とした。翌寛政8年に[[イギリス]]船・[[ウィリアム・ロバート・ブロートン#プロヴィデンス号の航海|プロビデンス号]]がアプタ沖(現北海道[[虻田郡]][[洞爺湖町]])に出没し上陸した。隠居の道広は章広や家臣の反対を押し切り出陣した<ref>『北海道戦国史と松前氏』p.244、なお道広は自身を「北方の守護者」と認識していたという(「松前大炊介殿示家臣書」([[東京大学史料編纂所]]蔵))</ref>。この事件の際の藩の対応に不満を持った大原は藩を離れ、幕府に対し松前藩が外夷と内通しようとしていると讒言した。
寛政11年([[1799年]])1月16日、幕府は松前藩の東蝦夷地を7年間[[上知]]することを決めた。8月12日には残りの地も上知とされた。これに伴い、[[武蔵国]][[埼玉郡]]内に代地として5千石を与えられた。[[享和]]元年([[1801年]])7月21日、幕府は東蝦夷地支配の永続化を決定した。武蔵国内の領地5千石も収公され、毎年3500両を支給することとされた。しかし表高より実収入が遥かに多かった松前藩は困窮した。上知の期限を迎えたが返還はされず、文化4年(1807年)2月22日に西蝦夷地の没収も決定し、3月12日に所領を[[陸奥国]][[伊達郡]][[梁川藩]]に9千石(実高1万8千石余)で移された。上記のように藩の収入は激減したため財政危機を迎え、例えば梁川に連れてくることができた家臣は旧領の半分以下の110余名となった。また、道広に対し幕府から海防の不手際や素行不良を理由として謹慎が命じられたのは、この二週間後のことである。
松前氏は蠣崎波響ら家中を挙げて、表から裏から旧領復帰工作を行った。その14年後の[[文政]]4年([[1821年]])12月4日、松前氏は旧領松前に復した。この復領は、ロシアからの脅威が低くなったという名目で行われたが、内実は松前家が道広の伝手から11代将軍[[徳川家斉]]の実父[[徳川治済|一橋治済]]に接近し、当時の幕政を取り仕切る老中[[水野忠成]]への莫大な賄賂攻勢を行い、家斉に請願した上で、ほぼ水野の独断決定の結果であることが「水戸烈公上書」や「[[藤田東湖|藤田東湖見聞偶筆]]」に記されている<ref>{{Cite news|url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-04/shishi_03-04-01-00-01.htm|title=松前藩復領の経緯|work=函館市史|publisher=函館市|date=|accessdate=2014-12-13}}</ref>。この経緯から、先の道広の隠居命令も幕府内でのなにかしらの権力争いや、幕政上の都合があったとも推測される。 ▼
寛政11年([[1799年]])3月21日、東蝦夷地を幕府に一時的に没収された。それに伴い、[[武蔵国]][[埼玉郡]]内に5千石を与えられた。[[享和]]元年([[1801年]])7月21日、幕府は東蝦夷地支配の永続化を決定し、武蔵国内の領地5千石も収公、毎年3500両を支給することにした。[[文化 (元号)|文化]]4年([[1807年]])3月12日に所領を西蝦夷地から[[陸奥国]][[伊達郡]][[梁川藩]]に9千石で移封された。[[文政]]4年([[1821年]])12月4日に旧領に復した。
この間の柳川藩時代の文政3年(1820年)、医師の滝沢宗伯が章広出入りの医者として新規に召し抱えられた。この宗伯は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』などで当時から著名であった[[曲亭馬琴]](滝沢馬琴)の子供である。当時馬琴は生活が安定しておらず、また武家の出身である馬琴は滝沢家の復興を悲願としていた。この医師である息子の登用により、馬琴の願いが叶った形となったが、この雇用は馬琴の愛読者であった隠居の道広による好意に拠るものであった。
▲松前氏復領は 蠣崎波響ら家中を挙げて、 表から裏から旧領復帰工作を行った。その14年後の[[ 文政]]4年([[1821年]])12月4日、松前氏は旧領松前に復した。この復領は、ロシア 帝国|ロシア]]からの脅威が低くなったという名目で行われたが、内実は 松前家が父・道広の伝手から 11代将軍 [[・徳川家斉 ]]の 実父 ・[[徳川治済|一橋治済]]に接近 し、 当時の幕政を取り仕切る老中[[水野忠成]]への莫大な賄賂攻勢を行い、家斉に請願した 上で、ほぼ水野の独断決定の結果であることが 、「水戸烈公上書」や「[[藤田東湖|藤田東湖見聞偶筆]]」に記されている<ref>{{Cite news|url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-04/shishi_03-04-01-00-01.htm|title=松前藩復領の経緯|work=函館市史|publisher=函館市|date=|accessdate=2014-12-13}}</ref>。 この経緯から[[天保]]2年([[1831年]])、 先の道広の隠居命令も幕府内でのな1万石に かしらの権力争いや、幕政上の都合があったとも推測される復す。
[[天保]]2年([[1831年]])、1万石に復した。[[天保]]3年([[1832年]])6月20日、道広が死去した。
父の死の翌年である天保4年([[1833年]])、章広死去。享年59。先立つ文政10年([[1827年]])に嫡男(次男)の・[[松前見広|見広]]が死去していたため、家督は見広の長男の・[[松前良広|良広]]が継いだ。
== 系譜 ==
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