「長浜城 (近江国)」の版間の差分
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同3・4年頃完成し羽柴秀吉が入城した。いわゆる水城であり湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。[[城下町]]は小谷城下([[滋賀県]][[長浜市]]湖北町伊部)からそのまま移した。現在でも城下町には羽柴氏当時の面影や名残が残る。のちに天下人となる秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の領国・城下町経営の基礎を醸成した所とされている。
1581(天正9年)、織田氏の中国遠征で不在であった羽柴氏<ref>軍事的拠点機能を前線に近い播磨国[[姫路城]]などに移していた。</ref>のあと、信長は荒木村重討伐や越前一向宗制圧の功から堀秀政を長浜城主に任じた
1582年(天正10年)に[[本能寺の変]]が起こり、[[明智光秀]]の手により織田信長が殺害されると、明智に加担した[[山本山城]]主の[[阿閉貞征]]が長浜城を占領した。羽柴氏の妻ら係累は近隣の寺に逃れた。阿閉は[[山崎の戦い]]にも明智方として参加するが、明智は信長の仇討を掲げる羽柴方に敗戦し、阿閉は秀吉方に捕縛され阿閉一族全て処刑された。長浜城は羽柴氏の支配下に戻った。
[[1606年]]([[慶長]]11年)に[[内藤信成]]・[[内藤信正|信正]]が城主になるが([[長浜藩]])、[[大坂の陣]]後の[[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年)に内藤氏は[[摂津国|摂津]][[高槻藩|高槻]]に移封され、長浜城は[[廃城]]になった。資材の大半は[[彦根城]]の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある[[真宗大谷派長浜別院大通寺|大通寺]]の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができる。同市内にある[[知善院]]の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。
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