「岸信介」の版間の差分
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4月からはイギリスに松下正寿特使を派遣し、核実験禁止をアピールし、また国連でも積極的に核実験問題を喚起し、アメリカやイギリスの反発を買った{{Sfn|コン・ヨンスク|2000|p=175}}。4月20日にはインドの[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]首相が「諸大国に原水爆実験を行って他国の上空を汚染させる法的権利があるだろうか」と非難し、5月9日にはセイロンのコロンボ市議会がインドのネール首相と岸に向かってクリスマス島でのイギリスの水爆実験阻止を要請した{{Sfn|コン・ヨンスク|2000|p=176}}。
5月20日、岸はアジア歴訪に出て、[[インド]]、[[パキスタン]]、セイロン、[[タイ王国|タイ]]、台湾([[中華民国]])等
6月には米国へ渡り、[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]大統領と首脳会談、安保改定の検討を約束させた{{Sfn|北岡伸一|2011|p=11}}。6月20日のアメリカ議会での演説では国際共産主義の脅威を唱え、翌日の記者会見では「日本は絶対に共産主義や中立主義に走らない」と述べた{{Sfn|コン・ヨンスク|2000|p=177}}。国賓としての訪米であり、アメリカ国内の移動には[[エアフォースワン|大統領専用機]](''Columbine III'')が貸与される厚遇ぶりであったが、ダレス国務長官や制服組のトップである[[アーサー・W・ラドフォード|ラドフォード]][[アメリカ統合参謀本部議長|統合参謀本部議長]]との会談は厳しいものであった{{refnest|group=注|国際政治学者の権容奭は、「ダレスとの会談記録を読むと、主導権を持っていったのはダレスでありアメリカ側だった。岸は内心、苦々しい思いをしたのではないかと推測できる」「アメリカだけ信じていたらダメだ、依存していたらダメだということを強く思ったんじゃないかと思う」と述べ、その後の岸は、アメリカ一本ではなく、イギリスや中国、インドなど、日本独自の外交オプションを広げていったとしている<ref name=":3" />。}}。この席で岸は「[[国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案|秘密保護法]]についてはいずれ立法措置を講じたいと思っている」とラドフォードの求めに応じている<ref name=":3" />。
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