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その後も戦闘によって日本軍戦車の消耗は続き、7月9日には戦車の完全喪失が29輌に達したことを知った[[関東軍]]が、このままでは虎の子の戦車部隊が壊滅すると懸念し「7月10日朝をもって戦車支隊を解散すること」との両連隊に対する引き揚げを命じた{{Sfn|秦|2014|p=Kindle版1697}}。第4戦車連隊連隊長の[[玉田美郎]]大佐らはこの命令を不服としたが、関東軍の決定は覆らず、ノモンハンでの日本軍戦車隊の戦績はここで終局をむかえることとなった{{Sfn|古是|2009|p=182}}。戦車第3連隊は343名の兵員の内、吉丸連隊長を含む47名が戦死し戦車15輌を喪失、戦車第4連隊は561名の内28名戦死し戦車14輌喪失し戦場を後にしたが{{Sfn|秦|2014|p=Kindle版1559}}、九七式中戦車は投入された4輌のなかで撃破されたのは吉丸の連隊長車の1輌のみであった{{Sfn|加登川|1974|p=186}}。
 
日本軍戦車はあまりにも早い時点で戦場から姿を消したため、戦死した吉丸連隊長の遺骨を抱いて帰った戦車兵らに「日本の戦車は何の役にも立たなかった」「日本の戦車はピアノ線にひっかかって全滅した」「一戦に敗れ、引き下がった」「戦場から追い返された」などの辛辣な声がかけられたこともあって{{Sfn|加登川|1974|p=188}}、戦後に作家の[[司馬遼太郎]]に「もつともノモンハンの戦闘は、ソ連の戦車集団と、分隊教練だけがやたらとうまい日本の旧式歩兵との鉄と肉の戦いで、日本戦車は一台も参加せず、ハルハ河をはさむ荒野は、むざんにも日本歩兵の殺戮場のような光景を呈していた。事件のおわりごろになってやっと海を渡って輸送されてきた[[八九式中戦車]]団が、雲霞のようなソ連の[[BT戦車]]団に戦いを挑んだのである{{Sfn|司馬|2004|pp=179-180}}」「日本軍の戦車砲は撃てども撃てども小柄なBT戦車の鋼板にカスリ傷もあたえることができなかった、逆に日本の八九式中戦車はBT戦車の小さくて素早い砲弾のために一発で仕止められた。またたくまに戦場に八九式の鉄の死骸がるいるいと横たわった。戦闘というより一方的虐殺であった」などと著作に書かれて{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版523}}、事実と相違した印象が広まることとなった。ノモンハン事件においては日本軍側の戦車の喪失は29輌だったのに対して、ソ連は255輌を失っており、装甲車を合わせると損失は397輌にもなり、日本軍側の損失を大きく上回っている{{Sfn|コロミーエツ|pp=101,125}}。
 
なお、司馬は[[学徒出陣]]で戦車隊士官となり九七式中戦車で訓練をしていたが、九七式中戦車が終生まで強い印象として残っていたようで、著作に「同時代の最優秀の機械であったようで{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版474}}」「チハ車は草むらの獲物を狙う猟犬のようにしなやかで、車高が低く、その点でも当時の陸軍技術家の能力は高く評価できる」「当時の他の列強の戦車はガソリンを燃料としていたのに対し、日本陸軍の戦車は既に(燃費の良い)ディーゼルエンジンで動いていた{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版487}}」と称賛する一方で、その戦闘能力については「この戦車の最大の欠点は戦争ができないことであった。敵の戦車に対する防御力もないに等しかった」「防御力と攻撃力も無い車を戦車とはいえないという点では先代の八九式と同様で、鉄鋼がとびきり薄く、大砲は八九式の五七ミリ搭載砲をすこし改良しただけの、初速の遅い(つまり砲身の短い)従って貫通力の鈍い砲であった。チハ車は昭和十二年に完成し、同十五年ごろには各連隊に配給されたが、同時期のどの国の戦車と戦車戦を演じても必ず負ける戦車だった」と書いており愛憎の入り混じった評価をしている{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版487}}<ref>[https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1806/05/news054.html なぜレオパレス21の問題は、旧陸軍の戦車とそっくりなのか] ITmedia ビジネスオンライン</ref>。また、戦車に乗っている自分の姿をよく夢に見ているが、その夢の内容を「戦車の内部は、エンジンの煤と、エンジンが作動したために出る微量の鉄粉とそして潤滑油のいりまじった特有の体臭をもっている。その匂いまで夢の中に出てくる。追憶の甘さと懐かしさの入りまじった夢なのだが、しかし悪夢ではないのにたいてい魘されたりしている」と詳細に書き残しており{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版922}}、戦車に対する司馬の愛着を感じることができる{{Sfn|秦|2012|p=Kindle版1409}}。戦車兵であったという軍歴も否定的には捉えておらず、戦友会にも積極的に出席していた{{Sfn|秦|2012|p=Kindle版1384}}。[[戦車第1連隊]]のときの司馬の元上官で、戦後に[[AIG損害保険|AIU保険]]の役員となった宗像正吉は、歴史研究家[[秦郁彦]]からの司馬はなぜ日本軍の戦車の悪口を言い続けたのか?という質問に対して「彼は本当は戦車が大好きだったんだと思います。ほれ、出来の悪い子ほどかわいいという諺があるでしょう」と答えている{{Sfn|秦|2012|p=Kindle版1392}}。