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日本の封建社会における最後にして最大の農民一揆と言われる。また、首謀者の中に浄土真宗の僧侶が含まれていたことから、当時同宗門徒を中心として起こされていた[[廃仏毀釈]]に反対する[[護法一揆]]として扱われる場合がある<ref>[[吉川弘文館]]『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』「護法一揆」(執筆者:吉田久一)・[[小学館]]『[[日本歴史大事典]]』「護法一揆」(執筆者:三上一夫)ともに当事件を護法一揆の代表例としている。</ref>。文献によっては、'''新潟県分水一揆'''・'''大河津分水騒動'''・'''信越地方土寇蜂起'''などの語も用いられている。
 
一揆は、旧暦4月4日(新暦5月10日)から6日(新暦5月12日)にかけて柏崎県庁へ強訴を行った一行と、4月6日から8日(新暦5月14日)にかけて新潟県庁へ向かった一行とから成る。2つの一揆の間に繋がりは無く、偶発的とするのが通説であり、その意味では新潟県側の一揆のみを「悌輔騒動」と呼ぶべきであろうが、事件の性質から合わせて記述する。
 
==事件の背景==
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==柏崎県側==
元八王寺村(現燕市)農民の無宿者、川崎九郎次らは、1872年(明治5年)3月頃より流域に分水工事反対の決起を呼び掛ける落し文を行っていた。後の調書によれば、彼は新政府転覆を企てる元[[米沢藩]]士、木下三左衛門の指示を受けたとあるが、この人物については不明である。)44月3日夜、早鐘を合図に現在の[[巻潟東インターチェンジ|巻潟東IC]]付近に千数百名の一揆勢が集結し、道々周辺の農民を糾合しながら柏崎県庁(現[[柏崎市]])へ強訴に向かった。一説には、最盛時には9千名にも達したとされるが、途中逃げ帰るものも多く、5日午後に柏崎に到着した時には4~6千名ほどであったとされる。一揆勢は県庁側役人に次のような嘆願書を提出した。
# 分水工事の負担の免除。
# 氏子・檀家の負担となる社寺の免税。
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[[Category:日本の暴動事件]]
[[Category:1872年の日本]]
[[Category:1872年45月]]
[[Category:新政反対一揆]]