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[[永正]]16年([[1519年]])、[[今川氏親]]の三男として生まれる{{Efn|「護国禅師三十三回忌香語写」の記述より{{Sfn|大石|2019|pp=10-11|loc=「総論 今川義元の生涯」}}{{Sfn|黒田|2019|p=101|loc=大石泰史「花蔵の乱再考」}}。ただし、今川彦五郎を義元の兄とみるか弟とみるかで見解が異なり、黒田基樹は四男説を採る{{Sfn|黒田|2017|pp=58-61}}。}}。母は父の[[正室]]である[[中御門宣胤]]の娘([[寿桂尼]])。ただし、義元は本来は側室の子で花倉の乱後に寿桂尼と養子縁組をしたとする説もある(後述)。生まれた時は既に跡継ぎとして、同母兄の[[今川氏輝|氏輝]]、および[[今川彦五郎|彦五郎]]がいたために4歳で仏門に出され{{Refnest|group="注釈"|江戸時代の元禄頃に成立した説話集『武家雑記』によると、寺に預けられた理由について「義元は足が短く胴長の障害者であったため寺に入れられた」と記されている。しかし、武将の子が寺に入るのは、学問を身に付けるため、さらには兄弟間の家督争いを避けるためであり、珍しいことではなかった([[上杉謙信]]も、幼少期には仏門に出されている)ため、これは義元を貶めるため、少年時代までさかのぼり、事実を歪曲したものと思われる<ref>{{Citation|和書|title=桶狭間の戦い|series=新説 戦乱の日本史 第10号|publisher=[[小学館]]|year=2008}}</ref>。もっとも、近年出された義元庶出説に従えば、嫡子ではないために家督相続が最初から想定されていなかったから、という説明も可能である。}}、[[駿河国]][[富士郡]]瀬古[[善得寺]]の[[琴渓承舜]]に預けられた。享禄2年(1529年)に承舜が没したために、彼の弟子であった[[太原雪斎|九英承菊(後の太原雪斎)]]がその役割を継承した<ref>{{Cite journal|和書|author=今枝愛眞|title=戦国大名今川氏と禅宗諸派|journal=静岡県史研究|issue=14号|year=1997}}/所収:{{Citation|和書|editor=黒田基樹|series=シリーズ・中世関東武士の研究 第二六巻|title=今川氏親|publisher=戎光祥出版|year=2019|month=4|isbn=978-4-86403-318-3|pages=264-265}}</ref>。その後、雪斎と共に[[建仁寺]]に入り[[常庵龍崇]]{{Efn|建仁寺262世。東常縁の子。兄に駿河・最勝院の素純がおり、その縁で駿河を訪れて雪斎とも交流があった{{Sfn|大石|2019|p=12|loc=「総論 今川義元の生涯」}}。}}の元で得度し'''栴岳承芳'''(せんがくしょうほう)<ref group="注釈">梅岳承芳(ばいがくしょうほう)とも。</ref>となった。さらに雪斎と共に[[妙心寺]]で[[大休宗休]]に学び学識を深めた<ref>{{Cite journal|和書|author=小和田哲男|journal=週刊ビジュアル戦国王|issue=77|date=2017年12月19日|page=23}}</ref>。
 
その後、氏輝の命を受けて京都から駿河に戻るが、その直後の[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])に氏輝が急死する。この時点ではまだ兄の[[今川彦五郎|彦五郎]]がいたために継承権はなかったが、彦五郎までもが氏輝と同日に死亡したために継承権が巡ってきた。氏輝・彦五郎と同じ寿桂尼所生であることも後押しとなり、重臣たちから還俗を乞われた承芳は主君であり本流に当たる[[征夷大将軍]]・[[足利義晴]]から[[偏諱]]を賜り、'''義元'''と名乗った。だが当主継承は有力家臣の[[福島氏#福島氏(美濃国)|福島(くしま)氏]]の反対で混迷化し、最終的に福島氏は自家の血を引く義元の異母兄・[[玄広恵探]]を当主として掲げて反旗を翻した([[花倉の乱]])後、義元は(彦五郎)を名乗ったと推察される。家督継承者として正当化を図ったとされる{{efn|今川家側の史料に彦五郎の名を記したものはなく、『今川記』『今川氏系図』には彦五郎の記載はない。彦五郎に関する史料は、いずれも今川家以外の人物によって記されたものである。[[大永]]6年([[1526年]])に行われた今川氏親の葬儀には「'''今川氏親公葬記'''」という詳細な記録が残されているが、彦五郎が出席して記録に残されてしかるべき状況にも名はない{{Sfn|小和田|2004|p=68}}。こうした不可解な状況から、今川義元が家督継承後に記録を書き換え、彦五郎の存在を抹消したという推測さえある{{Sfn|小和田|2004|p=68}}。その後、玄広恵探の方が彦五郎よりも年長であることが確定したことをきっかけとして、氏親が死去したときに彦五郎は幼少で参列を許されなかったとする説{{Sfn|黒田|2019|p=101|loc=大石泰史「花蔵の乱再考」}}、一方で栴岳承芳(義元)は僧籍を有していたため幼少でありながら特別に参列を許されたとする説{{Sfn|黒田|2017|pp=58-61}}が出されている。また、今川氏真が彦五郎の菩提を弔ったことを示す文書も発見されている<ref>永禄11年3月10日付円良寺宛氏真判物:「円良寺文書」所収/『戦国遺文』今川氏編2186号</ref>。}}。
その後、氏輝の命を受けて中国
から駿河に戻るが、その直後の[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])に氏輝が急死する。この時点ではまだ兄の[[今川彦五郎|彦五郎]]がいたために継承権はなかったが、彦五郎までもが氏輝と同日に死亡したために継承権が巡ってきた。氏輝・彦五郎と同じ寿桂尼所生であることも後押しとなり、重臣たちから還俗を乞われた承芳は主君であり本流に当たる[[征夷大将軍]]・[[足利義晴]]から[[偏諱]]を賜り、'''義元'''と名乗った。だが当主継承は有力家臣の[[福島氏#福島氏(美濃国)|福島(くしま)氏]]の反対で混迷化し、最終的に福島氏は自家の血を引く義元の異母兄・[[玄広恵探]]を当主として掲げて反旗を翻した([[花倉の乱]])後、義元は(彦五郎)を名乗ったと推察される。家督継承者として正当化を図ったとされる{{efn|今川家側の史料に彦五郎の名を記したものはなく、『今川記』『今川氏系図』には彦五郎の記載はない。彦五郎に関する史料は、いずれも今川家以外の人物によって記されたものである。[[大永]]6年([[1526年]])に行われた今川氏親の葬儀には「'''今川氏親公葬記'''」という詳細な記録が残されているが、彦五郎が出席して記録に残されてしかるべき状況にも名はない{{Sfn|小和田|2004|p=68}}。こうした不可解な状況から、今川義元が家督継承後に記録を書き換え、彦五郎の存在を抹消したという推測さえある{{Sfn|小和田|2004|p=68}}。その後、玄広恵探の方が彦五郎よりも年長であることが確定したことをきっかけとして、氏親が死去したときに彦五郎は幼少で参列を許されなかったとする説{{Sfn|黒田|2019|p=101|loc=大石泰史「花蔵の乱再考」}}、一方で栴岳承芳(義元)は僧籍を有していたため幼少でありながら特別に参列を許されたとする説{{Sfn|黒田|2017|pp=58-61}}が出されている。また、今川氏真が彦五郎の菩提を弔ったことを示す文書も発見されている<ref>永禄11年3月10日付円良寺宛氏真判物:「円良寺文書」所収/『戦国遺文』今川氏編2186号</ref>。}}。
 
恵探側は今川館に攻め寄せる等攻勢をみせたが太原雪斎・[[岡部親綱]]ら義元側の家臣団の奮戦の前に苦戦が続いた。加えて義元が[[伊豆国]]([[静岡県]]伊豆半島)・[[相模国]]([[神奈川県]]西南部)を領する[[後北条氏]]からの支援を得ることに成功すると一層敗色は濃厚となり、花倉城の陥落を以って恵探は自害した。内乱を鎮めて家督相続を果たした義元は[[今川氏]]当主となり、自らに忠義を示した家臣を重用して支配体制を整えた。