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{{基礎情報 公家
| 氏名 = 二条 康道
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[江戸時代|江戸時代前期]]
| 生誕 = [[慶長]]12年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]([[1607年]][[2月20日]])
| 死没 = [[寛文]]6年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]([[1666年]][[8月28日]])
| 改名 =
| 別名 = 松鶴(幼名)、東
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[従一位]][[摂政]]、[[左大臣]]
| 主君 = [[後水尾天皇]] [[明正天皇|{{color|#FC4E6B|明正天皇}}]] [[後光明天皇]]<br /> [[後西天皇]] [[霊元天皇]]
| 氏族 = [[九条家]]→[[二条家]]
| 父母 = 父:[[九条幸家]]、母:[[豊臣完子]]([[豊臣秀勝]]の娘)<br />養父:''[[二条昭実]]''
| 兄弟 = '''康道'''、[[九条道房|道房]]、[[松殿道基|道基]]、随心院栄厳、成等院、貞梁院、日怡
| 妻 = [[貞子内親王]]([[後陽成天皇]]皇女)
| 子 = '''[[二条光平|光平]]'''、華山仙禅師、瑞照院日通
| 特記事項 =
}}
'''二条 康道'''(にじょう やすみち)は、[[江戸時代]]前期の[[公卿]]・[[藤氏長者]]。[[藤原氏]][[摂家|摂関家]][[二条家]]の第16代[[家長|当主]]。[[摂政]]・[[左大臣]]に昇った。[[関白]][[九条幸家]]の長男。母は[[豊臣完子]]。養父は大叔父[[二条昭実]]。の長男で[[九条道房]]、[[松殿道基]]らの兄。[[江戸幕府]]3代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家光]]と[[徳川和子]](東福門院)の甥に当たる。[[幼名]]は松鶴、一字名として「東」
 
[[後水尾天皇]]に仕え[[明正天皇]]と[[後光明天皇]]の即位など重要儀式に立ち会い、摂政を退いた後も後水尾上皇から諮問を受け、幕府とも折衝して天皇家の後継者問題にも関与した。また父が庇護していた[[京狩野]]のパトロンの1人でもあり、父と同様に彼等を庇護した。
 
== 経歴 ==
=== 二条家相続 ===
慶長18年([[1613年]])、[[正五位|正五位下]]に叙せられて[[元服]]し、[[徳川家康]]より「康」の字を贈られて'''康道'''と名乗る(これ以降[[二条斉敬|斉敬]]の代まで[[徳川将軍家]]から[[偏諱]]を賜るようになった)。
大叔父の[[二条昭実]]に子がいないため、松鶴は慶長16年([[1611年]])[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]に昭実の養子として[[二条家]]を相続、2年後の慶長18年([[1613年]])[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]に[[大御所 (江戸時代)|大御所]][[徳川家康]]より「康」の字を贈られて'''康道'''と名乗る。これ以降[[二条斉敬|斉敬]]の代まで[[徳川将軍家]]から[[偏諱]]を賜るようになった。同年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]に[[正五位|正五位下]][[近衛府|左近衛少将]]に叙せられて[[元服]]、2週間後の[[12月21日 (旧暦)|21日]]に元服した長弟忠象(後に道房に改名)は父の後継者として実家の[[九条家]]を相続、次弟千世鶴は[[寛永]]11年([[1634年]])[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]に元服して道基に改名(後に道昭に改名)、[[7月29日 (旧暦)|29日]]に再興された[[松殿家]]を継いだ{{#tag:ref|過去[[九条稙通]]に男子が無かった時、姻戚関係にあった二条家から養子が入った例がある。この人物が康道ら3兄弟の祖父[[九条兼孝]]で二条昭実の兄に当たり、康道が二条家へ養子入りした件はかつての逆が行われた形になった{{sfn|五十嵐公一|2012|p=11,33}}。|group=注釈}}{{sfn|野島寿三郎|1994|p=610}}{{sfn|五十嵐公一|2012|p=32-34}}。
 
官位は慶長19年([[1614年]])に[[従四位|従四位下]]、慶長20年([[1615年]])に[[従三位]]、[[元和 (日本)|元和]]元年(1615年)に[[近衛府|左近衛中将]]、翌元和2年([[1616年]])に[[中納言|権中納言]]に任命された。[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])には[[正三位]][[大納言|権大納言]]に昇進したが、同年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]に養父が[[崩御#薨去|薨去]]、幼い康道の将来を案じた養父の遺言で、実父を始め大叔父で養父の2人の弟である[[鷹司信房]]と[[義演]]、実父の弟で康道の叔父[[増孝]]が後見人になった。また、実父は二条家の相伝である[[即位灌頂]]([[天皇]]の[[即位の礼|即位式]]の中で行われた[[密教]]儀式)の資料『御即位勧請并叙位除目之相伝』を預かり、康道が21歳になった[[寛永]]4年([[1627年]])に資料を返した。以後康道はこの資料を用いて即位灌頂を行い、明正天皇と後光明天皇それぞれの即位灌頂(寛永7年([[1630年]])[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]・寛永20年([[1633年]])[[10月21日 (旧暦)|10月21日]])で伝授役を務めている{{sfn|野島寿三郎|1994|p=610}}{{sfn|五十嵐公一|2012|p=44-45}}。
 
元和6年([[1620年]])に[[従二位]][[近衛大将|右近衛大将]]、翌元和7年([[1621年]])に[[内大臣]]、元和8年([[1622年]])に[[正二位]]に叙せられ、元和9年([[1623年]])に左近衛大将任官(寛永3年([[1626年]])まで)、寛永6年([[1629年]])に[[右大臣]]、寛永9年([[1632年]])には[[左大臣]]にまでなった{{sfn|野島寿三郎|1994|p=610}}。
 
この間慶事と身内の不幸に接し、元和9年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]に後見人の1人鷹司信房夫妻の媒酌で、[[後陽成天皇]]の皇女で後水尾天皇の同母妹[[貞子内親王]]と祝言を挙げ、寛永元年([[1624年]])[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]に息子・[[二条光平]]が誕生した一方、前日に父方の祖母[[高倉熙子]]が他界する不幸に遭っている。寛永3年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]に上洛した大御所[[徳川秀忠]](母方の祖母[[崇源院|江]]の3度目の結婚相手)・将軍徳川家光(母の異父弟)父子が滞在していた[[二条城]]に後水尾天皇が[[行幸]]すると、天皇の[[中宮]]で同い年の母方の叔母に当たる和子が天皇に先立ち行啓、弟の忠象ら他の公卿たちと共に和子に随行、御宴にも出席した{{sfn|久保貴子|人物叢書|2008|p=47,61,64}}{{sfn|五十嵐公一|2012|p=49-50}}。
 
=== 2人の天皇の摂政 ===
寛永6年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]に天皇が和子所生の皇女の女一宮へ[[親王宣下|内親王宣下]]を行い興子と名付け、同母姉[[清子内親王 (江戸時代)|清子内親王]](鷹司信房の子で康道の従叔父[[鷹司信尚]]の妻)にも[[准后|准三后]]宣下を行った時に[[上卿]]を務めた。ところが[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]に天皇が開いた[[節会|片節会]]にも上卿を務めたが、そこで天皇が唐突に興子内親王へ譲位(明正天皇)したことを告げられ、出席した他の公家たちと共に驚愕、片節会で外弁を務めた[[日野資勝]]は康道から譲位を知らされたことを日記に書いている。翌寛永7年9月12日に即位の礼で内弁と即位灌頂を務めたが、幕府から派遣された即位見届けと譲位について[[武家伝奏]]と[[摂家]]に問い合わせる使者たち([[老中]][[土井利勝]]・[[酒井忠世]]・[[以心崇伝|金地院崇伝]])が[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]に摂政[[一条昭良|一条兼遐]](後に昭良に改名)の邸で摂家を集めた際、故障のため欠席している{{#tag:ref|幕府の使者たちの上洛目的は朝幕関係の再確認にあり、明正天皇即位から2日後の[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]に後水尾上皇の譲位の責任を取らせる意味で武家伝奏[[中院通村]]の更迭を要求(翌日更迭)、16日に康道と[[近衛信尋]]を除く摂家衆を集めた利勝・忠世・崇伝は秀忠・家光父子の伝言を聞かせ、譲位に対する驚き、それへの対応として幕府・摂家に武家伝奏を加えた朝廷運営の再確認を求めた{{sfn|久保貴子|人物叢書|2008|p=91-93}}。|group=注釈}}{{sfn|久保貴子|人物叢書|2008|p=80,91}}{{sfn|久保貴子|ミネルヴァ日本評伝選|2008|p=76}}。
 
寛永9年に秀忠が死去すると、幕府は秀忠の院号の選定を[[朝廷]]に要請した。結果、朝廷では康道が勘申した台徳院に定め、幕府も了承した。それから3年後の寛永12年([[1635年]])[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]に明正天皇が行幸を敢行したが([[朝覲|朝覲行幸]]とされる)、それに先立ち上皇から命じれた先例調査に取り組み行幸に随行、[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]に一条昭良に代わり摂政・藤氏長者に就任したが、翌寛永13年([[1636年]])に再び身内の不幸が訪れ、[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]に父方の祖父[[九条兼孝]]が薨去した。翌寛永14年([[1637年]])には上皇が摂政である康道を関白に改めて任命しようとしたが、[[京都所司代]][[板倉重宗]]の反対で実現しなかった。同年、左大臣を辞職{{#tag:ref|一条昭良は寛永9年からか摂政辞意を表明していたが、将軍家光に慰留され、寛永12年になって辞任が認められ康道と摂政を交代した。この間家光は[[武家諸法度]]改訂、上洛して上皇の[[院政]]を承諾するなど朝幕体制の整備に尽力しており、3年に渡り昭良を慰留していたのもその一環とされている{{sfn|久保貴子|ミネルヴァ日本評伝選|2008|p=86-89}}。|group=注釈}}{{sfn|野島寿三郎|1994|p=610}}{{sfn|久保貴子|人物叢書|2008|p=94-96}}{{sfn|藤田覚|2011|p=73,86}}{{sfn|五十嵐公一|2012|p=56-57}}。
 
それでも天皇の儀式に加えられ、寛永15年([[1638年]])[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]に明正天皇の鬢削ぎ役を務め、翌寛永16年([[1639年]])に[[従一位]]に叙位、寛永17年([[1640年]])[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]に敢行された2度目の朝覲行幸でも先例調査を行っている。また寛永20年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]に天皇の異母弟紹仁親王(後光明天皇)の[[元服]]の儀で加冠を勤め、10月21日に天皇が紹仁親王へ譲位した際に即位灌頂を務めた。皇室との縁も深まり、[[正保]]2年([[1645年]])[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]に息子光平が後水尾上皇の皇女で明正上皇の同母妹かつ後光明天皇の異母姉に当たる[[賀子内親王]]と縁組、[[慶安]]元年([[1648年]])に2人の間に孫娘[[隆崇院]]([[徳川綱重]]室)が誕生した{{sfn|野島寿三郎|1994|p=610-611}}{{sfn|久保貴子|人物叢書|2008|p=94-96,102-103,110-111,113-114}}{{sfn|五十嵐公一|2012|p=58-59}}。
 
=== 摂政辞職、晩年 ===
だが、正保3年([[1646年]])[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]に次弟道昭が急死。続いて長弟道房も体調が悪化、実父と共に余命いくばくもない道房を摂政に就任させるべく幕府へ働きかけ、正保4年([[1647年]])[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]に摂政を道房へ譲る形で辞職、摂政になった道房は5日後の[[1月10日 (旧暦)|10日]]に薨去。弟2人に先立たれたが後光明天皇の下で光平共々重用され、[[朱子学|程朱学派]]に傾倒した天皇が[[朝山意林庵]]を招聘すると天皇への講釈を整え、自らも光平と共に聴聞に参加した。慶安5年([[1652年]])に天皇から幕府へ提示する改元案の数を求められ、昭良や関白[[近衛尚嗣]]と相談して候補を絞り込んで提示することを言上、元号は最終的に幕府へ提示して選ばれた[[承応]]に改元された。翌承応2年([[1653年]])[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]には光平が関白に任命された{{sfn|野島寿三郎|1994|p=611}}{{sfn|久保貴子|ミネルヴァ日本評伝選|2008|p=134-135,139}}{{sfn|五十嵐公一|2012|p=59-60,62}}。
 
承応3年([[1654年]])[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]に後光明天皇が急死すると、後水尾法皇の御所で光平や天皇の側近・武家伝奏らと対応を協議、天皇の異母弟の高貴宮(後の[[霊元天皇]])を養子にすること、幼い高貴宮が成長するまで中継ぎとして天皇のもう1人の異母弟かつ高貴宮の異母兄良仁親王が即位することを合意([[後西天皇]])、東福門院の意向も汲んだ上で光平が幕府へ書状を送り、幕府の承諾を取り付けた。後継者問題は収拾を付けたが、[[万治]]元年([[1658年]])[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]に実母完子が逝去、万治4年([[1661年]])[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]に光平邸から出火した火事が内裏・御所・多くの公家屋敷・町家・武家長屋を焼き払う大火災になるなど、晩年も訃報と災難に見舞われた{{sfn|久保貴子|人物叢書|2008|p=117-120,129-130}}{{sfn|五十嵐公一|2012|p=59-60,62,64-67}}。
寛文6年([[1666年]])、[[崩御#薨去|薨去]]。[[享年]]60。
 
寛文5年([[1665年]])7月、80歳の高齢で体調を崩した実父を見舞ったが甲斐なく[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]に薨去。翌寛文6年(1666年)7月28日に自身も実父の後を追うように薨去。[[享年]]60。家督は光平が継いだが男子が無いため、康道の遺言に基づき[[延宝]]4年([[1676年]])に九条道房の養子・[[九条兼晴]]の次男石君(後の[[二条綱平]])が養子に迎えられ、法皇が養子に推薦した昭良の次男(後の[[醍醐冬基]])は退けられた{{#tag:ref|冬基の父昭良は元皇族(後陽成天皇の第九皇子、後水尾法皇の同母弟)であり、冬基は後水尾法皇の甥に当たった。康道はこの系譜を快く思わず、生前から天皇家([[天照大神]]の子孫)と摂家([[天児屋命]]の子孫)の正統を犯してはならないと口にしていたため、二条家では皇族の血を引く冬基は受け入れられなかった。ちなみに、冬基は二条家は相続出来なかったが、伯父である法皇が幕府に働きかけたおかげで[[醍醐家]]を創設した{{sfn|久保貴子|ミネルヴァ日本評伝選|2008|p=207-208}}。|group=注釈}}{{sfn|五十嵐公一|2012|p=68-69}}。
[[正室]]は[[貞子内親王]]([[後陽成天皇]][[皇女]]、[[後水尾天皇]]同母妹)。子女に[[二条光平]]、瑞照院日通([[瑞龍寺 (近江八幡市)|瑞龍寺]]三世)、華山仙禅師([[慈受院]]五世)がいた。
 
== 逸話 ==
父がパトロンをしていた[[京狩野]]の画家[[狩野山雪]]と兄や弟と共に交流していたことが日記『康道公記』に確認され、寛永10年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]条・寛永13年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]条・寛永15年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]条・寛永19年([[1642年]])[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]・寛永20年5月5日条の記録に山雪が養父[[狩野山楽]]の代理として康道の屋敷へ訪れたこと、描いた短冊・扇子を康道に進上したことが書かれ、小品の注文を引き受けていた山雪の仕事の一端が伺える。また、京狩野に伝わる作品集『山楽山雪山水帖』にある[[瀟湘八景|瀟湘八景図]]に書かれた墨書「二条御内三位殿」の署名は位階が三位だった時期の康道を指しているとされる(光平説もあり){{sfn|五十嵐公一|2012|p=146-148,154-155}}。
* [[松永貞徳]]に俳諧を学んだ。
 
* 2代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川秀忠]]が[[死亡|死去]]すると、幕府は秀忠の院号の選定を[[朝廷]]に要請した。その結果、朝廷では康道が勘申した台徳院に定め、これを幕府を了承した。
山雪の息子[[狩野永納]]にも頻繁に注文を頼んでいたことが二条家の記録『二条家内々番所日次記』に記され、[[明暦]]2年([[1656年]])[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]条が永納が登場した最初の記録であるが、この記録で永納は康道の下に色紙50枚を持参したとあることからそれ以前に交流があったと考えられる。康道が永納へ注文した仕事は屏風や絵画などがあり、永納も康道との関係を大切にして正月・端午の節句など節目の挨拶で彼の下を頻繁に訪問しており、康道が実父を亡くす前の寛文5年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]と[[8月16日 (旧暦)|16日]]に見舞いに訪れ、康道を通じて九条家など他の公家たちとも交流を広げ、二条家とは光平に代替わりした後も長期にわたり交流を続けた。二条家関係の永納の作品で現存している絵は万治2年([[1659年]])作の『舞楽図巻』である{{sfn|五十嵐公一|2012|p=186-195}}。
* [[明正天皇]]([[いとこ|従妹]]にあたる)が15歳の[[1637年]](寛永14年)12月に[[後水尾天皇|後水尾上皇]]は[[摂政]]の康道を[[関白]]とすることを指示した。しかし、[[京都所司代]]・[[板倉重宗]]が猛然と反発したため、取りやめとなった。
 
* [[後光明天皇|紹仁親王]]の[[元服]]の儀で加冠を勤めた。
他の文化人との関わりには、[[松永貞徳]]に俳諧を学んだことが挙げられる{{sfn|野島寿三郎|1994|p=611}}。
* [[朱子学|程朱学派]]に傾倒した後光明天皇は、康道の推薦で民間から朝山意林庵を招き入れて[[進講]]を受けた。
 
== 官位官職経歴 ==
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** 女子:華山仙禅師([[疑問符|?]] - [[寛文]]11年([[1671年]])) - [[慈受院]]
** 女子:瑞照院日通(? - 寛文12年([[1672年]])) - [[瑞龍寺 (近江八幡市)|瑞龍寺]]
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
 
== 参考文献 ==
* [[野島寿三郎]]編日本史諸家系図公卿人名大事典』[[小和田哲男日外アソシエーツ]]、[[講談社]]、[[20031994]])
* [[小和田哲男]]天皇の歴日本06巻 江戸時代の天皇諸家系図人名辞典[[藤田覚]]、講談社]][[20112003]])
* [[久保貴子]]『徳川和子』(久保貴子、[[吉川弘文館]]([[人物叢書]、[[2008年]]) 、2008年2月20日。
* 久保貴子『後水尾天皇 <small>千年の坂も踏みわけて</small>』[[ミネルヴァ書房]]([[ミネルヴァ日本評伝選]])、2008年3月10日。
* [[藤田覚]]『天皇の歴史06巻 江戸時代の天皇』講談社、2011年。
* [[五十嵐公一]]『京狩野三代 生き残りの物語 <small>山楽・山雪・永納と九条幸家</small>』[[吉川弘文館]]、2012年。
 
== 登場作品 ==