「御土居」の版間の差分
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御土居と「洛中洛外」の節の記載を時系列で整理など |
名称の説明追加、御土居との関係性が不明瞭な落首をコメントアウト、室町殿日記の記載の評価 など |
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[[ファイル:土居5213.JPG|thumb|200px|史跡御土居、廬山寺内に現存する、京都市上京区]]
'''御土居'''(おどい)は[[豊臣秀吉]]によって作られた[[京都]]を囲む[[土塁]]である。外側の[[堀]]とあわせて'''御土居堀'''と呼ぶ場合もある。築造時の諸文献には「
==位置==
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===御土居と「洛中洛外」===
御土居の築造により、以降その内部を'''[[洛中]]'''、外部を'''[[洛外]]'''と呼ぶようになったとされる<ref>京都市情報館(京都市公式webサイト)に掲載される御土居の解説([https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005643.html 史跡 御土居])でも「土塁の内側を洛中,外側を洛外と呼び,」と紹介する。</ref>。
これに整合するよう、秀吉は、あい続く戦乱により、不分明となっていた洛中洛外<ref>京の市中を指して「[[洛中]]」及びその周辺を指して「辺土」という表現は[[鎌倉時代]]に見られ、それを一括として「洛中辺土」とする表現は[[室町幕府]]により14世紀になって設定され(黒田紘一郎「『洛中洛外屏風』についての覚書」(『日本史研究』第297号(1987))、また諸課役による用語は、[[応仁の乱]]後「洛中洛外」に統一される(瀬田勝哉『洛中洛外の群像ー失われた中世京都へー』「荘園解体期の京の流通」平凡社(1994年、初出は1993年)170ページ)、と紹介している({{citation|和書|last=高橋|first=慎一朗|title=中世の都市と武士|date=1996|publisher=吉川弘文館|ref=harv}})。</ref>の境を、御土居の築造により新たに定めようとしたという伝え(→[[#洛中の範囲を明らかにするため|後述]])があ
当時の都人の間でもこの人為的な洛中・洛外の区画は不評であったと見え、落首に「''おしつけて、ゆへバ(結えば)ゆわるる''十らく(聚楽)の、ミやこの内ハ一らく(楽)もなし」と詠まれた。秀吉が没して間もなく、政権が[[徳川家康|徳川]]に移ると、御土居の外の鴨川河川敷に[[高瀬川 (京都府)|高瀬川]]が開削され、その畔に商家が立ち並んだ<ref>高瀬川創建当時を描いた慶長17年([[1612年]])の八木家文書によれば、京惣曲輪(御土居)の外側から鴨川までの間、二条通から三条通に町家が並ぶ状況が描かれている({{citation|和書|last=石田|first=孝喜|title=京都 高瀬川ー角倉了以・素案の遺産ー|date=2005|publisher=思文閣出版|page=27|isbn=9784784212538|ref=harv}})。</ref>ことで「洛中」は実質的に鴨川河畔まで広がった。▼
▲<!--当時の都人の間でもこの人為的な洛中・洛外の区画は不評であったと見え、落首に「''おしつけて、ゆへバ(結えば)ゆわるる''十らく(聚楽)の、ミやこの内ハ一らく(楽)もなし」と詠まれた。-->秀吉が没して間もなく、政権が[[徳川家康|徳川]]に移ると、御土居の外の鴨川河川敷に[[高瀬川 (京都府)|高瀬川]]が開削され、その畔に商家が立ち並んだ<ref>高瀬川創建当時を描いた慶長17年([[1612年]])の八木家文書によれば、京惣曲輪(御土居)の外側から鴨川までの間、二条通から三条通に町家が並ぶ状況が描かれている({{citation|和書|last=石田|first=孝喜|title=京都 高瀬川ー角倉了以・素案の遺産ー|date=2005|publisher=思文閣出版|page=27|isbn=9784784212538|ref=harv}})。</ref>ことで「洛中」は実質的に鴨川河畔まで広がった。
御土居の外側に街並みが広がった[[寛永]]年間([[1624年]]-[[1644年]])に、京都の土木建築行政を担った中井役所が作成した『洛中絵図』でも御土居の内側と高瀬川周囲を描く<ref>『洛中絵図』は、江戸幕府大工頭中井家(中井役所)で作成した京都の実測地図。中井家では寛永14年([[1637年]])に最初の京都の実測地図(宮内庁書陵部蔵「洛中絵図」)を作成しており、その少し後の実測図が京都大学附属図書館に所蔵されている{{harv|伊東|2011}}。京都大学附属図書館蔵の「洛中絵図」は、上杉和央、岩崎奈緒子『京都古地図案内』(京都大学総合博物館)によれば、中井家が幕府に提出した清書絵図の写しとされ、寛永19年([[1642年]])の姿とされる。京都大学附属図書館蔵の「洛中絵図」は[https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000143 京都大学貴重資料アーカイブ寛永後萬治前洛中絵図]で閲覧可能。なお、この「寛永後萬治前洛中絵図」では、高瀬川沿いの御土居外側の街区についても記載している。</ref>。
また、洛中西部では洛外に通ずる出入り口が新たに20か所以上設けられた。洛中と洛外の農村の結びつきが強まり「(洛外)町続き町」が形成されたことで、ここでも実質的な「洛中」の拡大が見られた。
なお、御土居の内部であっても[[鞍馬口通]]以北は洛外と呼ばれることもあった<ref>地誌『京町鑑』(宝暦12年上梓)には'''「今洛中とは、東は縄手(現大和大路)、西は千本、北は鞍馬口、南は九条まで、其余鴨川西南は伏見堺迄を洛外と云」'''とある。これを信じるならば、御土居は「洛中洛外の境」として定着しなかったと解される。</ref>。
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秀吉自身が御土居建設の目的を説明した文献は現存しないが、以下のような理由が推測されている。
===洛中の範囲を明らかにするため===
[[慶長]]年間に[[前田玄以]]の求めに応じて旧[[室町幕府]]の吏僚が編んだとされる『[[室町殿日記]]』には、[[豊臣秀吉|秀吉]]の「[[洛中]]とは」という下問に対し[[細川幽斎]]が「東は京極迄、西は朱雀迄、北は鴨口、南は九条までを九重の都と号せり。されば内裏は代々少しづつ替ると申せども、さだめおかるる洛中洛外の境は聊かも違うことなし。油小路より東を左近、西を右近と申、右京は長安、左京は洛陽と号之。(中略)この京いつとなく衰え申、(中略)ややもすれば修羅の巷となるにつけて、一切の売人都鄙の到来無きによりて自ずから零落すと聞え申候」と答えたとある。この幽斎の返答を聞いた秀吉は「さあらば先ず洛中洛外を定むべし」と諸大名に命じ惣土堤(御土居)を築かせたという<ref>[[室町殿日記]]「秀吉公京都開基御尋之事」の記事</ref>。
===防衛===
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