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[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では西軍についたと認識されており、[[義演]]は信雄に尾張一国が返付されるという風聞を記している{{sfn|白峰旬|2016|p=92}}。また義演の9月14日の日記には[[大津城]]にこもる[[京極高次]]のもとに「真常」が[[高台院]]の使者として派遣され、開城させている。[[白峰旬]]は信雄の法名「常真」の誤りではないかとしている{{sfn|白峰旬|2016|p=92}}。戦後には嫡男の[[織田秀雄]]ともども改易されている。
 
戦後は[[豊臣秀頼]]に扶持を与えられ、大坂城下で隠遁生活を送った{{sfn|黒田基樹|2017|loc=Kindle版、位置No.全3159中 1679 / 51%}}。[[慶長]]19年([[1614年]])の[[大坂の陣|大坂冬の陣]]の直前には、[[大野治長]]・[[織田頼長]]らが[[片桐且元]]を殺害して[[江戸幕府]]と敵対しようとしている情報を掴み、これを且元に伝えた{{sfn|黒田基樹|2017|loc=Kindle版、位置No.全3159中 1631-1676 / 51%}}。これをうけて且元は出仕を取りやめ、後に大坂城を退去している。この時期、[[京都所司代]][[板倉勝重]]は、織田頼長らが幕府と対峙する際には大坂城に信雄を入城させ、総大将としようとする動きがあるという情報をつかんでいる{{sfn|黒田基樹|2017|loc=Kindle版、位置No.全3159中 2583 / 82%}}。また『[[慶長年録]]』によれば、この時期に信雄は秀頼は呼び出され、且元を成敗するから信雄に家政全般を差配するよう依頼されたとしている{{sfn|黒田基樹|2017|loc=Kindle版、位置No.全3159中 2594 / 81%}}。しかし9月27日には信雄も大坂を退去して[[京都]]に移った{{sfn|黒田基樹|2017|loc=Kindle版、位置No.全3159中 2525-2594 / 81%}}。
 
=== 徳川将軍家時代の大名 ===
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* [[ルイス・フロイス]]は本能寺の変時の[[安土城]]焼失を信雄の命令であるとしており、以下のように記述している。「[[山崎の戦い|明智の軍勢が津の国において惨敗を喫した事]]が安土に報ぜられると、彼が同所に置いていた武将は忽ち落胆し、安土城に放火する事もなく急遽坂本へ退却した。然し[[デウス]]は信長があれ程自慢にしていた建物の思い出を残さぬ為、[[明智秀満|敵]]が(存続を)許したその豪華な建物が其の儘建っている事を赦し給わず、そのより明らかな御智慧により、付近に居た信長の子、御本所(信雄)は普通より知恵が劣っていたので、何ら理由も無く、(彼に)邸と城を焼払う様命ずる事を嘉し給うた。(城の)上部が全て炎に包まれると彼は市にも放火したので、その大部分は焼失してしまった」。当時フロイスは九州の口之津(現[[長崎県]][[南島原市]])におり、記録を行ったのは変から4ヶ月後であった上、伊賀掌握に苦しんでいた信雄が安土に入ることは困難であった<ref name="千田嘉博20180322">{{cite web|author=[[千田嘉博]]|url=https://www.sankei.com/article/20180322-5LMTSH2UYBOMXCA6Y52DJ2XR3A/|website=産経ニュース|title=【千田嘉博のお城探偵】CASE8 安土城空白の一日 信長の天主 誰が焼いた?| publisher=[[産業経済新聞社]]|accessdate=2021-02-22|date=2018-3-22}}</ref>。更に発掘調査では炎上したのは本丸とその周辺のみと見られており、「市」にも放火したというフロイスの記述は完全に異なる<ref name="千田嘉博20180322" />。さらに三男信孝はキリスト教に好意的で宣教師の間で評価が高く{{Sfn|谷口|2005|p=249}}、そうでない信雄にはフロイスは厳しい面があり、注意が必要である。
* 織田一門の席次は、信忠、信雄、[[織田信包|信包]]、信孝の順であり、信孝の上位に配されていた。天正9年([[1581年]])の御馬揃えでは、信忠が率いた騎馬衆が80騎、信雄が30騎、信孝・信包が10騎であり、信孝とかなりの差があったと推測される 。
* [[能]]の名手と伝わるであり、高い評価を得ていた。[[文禄]]2年([[1593年]])、秀吉が主宰した天覧能を観た[[近衛信尹]]は、「常真御能比類無し、扇あつかひ殊勝ゝ」との感想を残しており、また『[[徳川実紀]]』には[[聚楽第]]で催された能について、「殊に常真は龍田の舞に妙を得て見るもの感に堪たり」と記されている。また、能役者にとっても信雄の発言が貴重な指針になっていたとされる(『観世流仕舞付』)<ref>{{Cite book|和書|author=竹本千鶴|title=松井友閑|publisher=吉川弘文館|series=人物叢書|year=2018|page=267}}</ref>
* 信雄の発言が能役者にとって貴重な指針になっていたとされる(『観世流仕舞付』)<ref>{{Cite book|和書|author=竹本千鶴|title=松井友閑|publisher=吉川弘文館|series=人物叢書|year=2018|page=267}}</ref>。
* 伊勢国河合において、杉を無断で切った家臣を許さず、追っ手を差し向けて誅殺したという話がある(『勢州軍記』)。
* 信孝死亡後、家督を継いでからは印文に「威加海内」の朱印を用いた。